その手





少々風の強い日であった。
雲の流れが速いせいか、太陽が何度も顔を出したり隠したりと忙しい。
なんにせよ、洗濯物を干している側としては少々風がある方が嬉しいと、隣でさんがつぶやいている。
夕方までに乾くといいですね、そう返事をしながら濡れたシーツを竿に干そうと腕を伸ばすとストップの声がかかった。
すると、オレの手の甲に自らの手を添え、シーツのしわをぱんぱんと引き伸ばしては、よし、とうなずく。
こうしてしわをとってから干すのだと手本を見せられ、それ以降、何でもかんでもしわを引き伸ばしてから干すクセがついた。


とても暑い日であった。
暑かろうと寒かろうと元気よく育つのは雑草だ。
奴らは太陽の光さえあればどこだろうと伸びて伸びて、根っこから引き抜いても何故かまた生えてくる。
そんな雑草と戦うべく兵舎の草むしりを一週間に一度はしている。もちろん兵長の指示だ。
その日、オレは何度も掃除のやり直しを命じられ、終わった頃には夜となっていた。火照る身体を休ませたいところだが、そうも言ってられない。
今日は草むしりもしなければならない日だ。すぐさま自分の担当である中庭の草むしりへ走ったのだが、何故か草が一本も生えていなかった。
咄嗟に先輩方が代わりにしてくれたのだと思いつき食堂へ駆け込んだ。食事をする先輩方のテーブルへ近寄り礼を述べたが、首をかしげられてしまう。違う任務へ駆り出されていたので兵舎にはいなかったと予想外の返事が返ってきた。
となれば誰がしてくれたというのか。
ミカサか、それともアルミン、いいや、あいつらはあいつらで次の壁外調査へ向けて忙しい日々を過ごしている。
最初から草が生えていなかったのではないかと、都合の良い考えをしながら掃除用具を片付けに外へ出れば、大量の洗濯物を抱えたさんが前から歩いてきた。
こちらに気付いたさんは、今まで走っていたかのような汗を額から流しつつ笑顔で挨拶をしてくる。
そこで、あることに気付いた。さんは何故か手で洗濯物に触れず腕だけで抱えており、どう見ても不自然な格好だった。
どうしたのかと聞くと、手が汚れているから、そう返事を返される。
その手に視線を向けると、確かに指先は黒ずみ、爪には砂が入り込んでいた。思わず、ハッとする。
オレは反射的に頭を下げ礼を述べた。
だが、さんはひょうひょうと、「洗濯物を取り込んだあとにその辺の草を引き抜いただけだよ。ちゃちゃっとね」などとウインクをしながら告げてくる。
更には「掃除用具も片付けといたから、早くご飯食べといで。掃除お疲れさま」と一言付け加え、この場を去って行った。
生ぬるい風が身体をすり抜け、オレの中の何かをゆるりとくすぐり後押ししてくる。
あわてて後を追いかけ、洗濯物を運ぶ手伝いをしたのは言うまでもない。


とても寒い日であった。
今日も朝から掃除だ。兵長の指示は絶対。
自室である地下牢の床をタワシで磨き、壁と鉄格子を拭き、ベッドのシーツを張り替え、やっと朝ごはんにありつける。
桶いっぱいに汲んできた水へ雑巾を浸し、固くしぼる。また雑巾が汚れたら洗ってしぼる、洗う、しぼる、洗う、しぼるの繰り返し。
いくら身体を動かしても、早朝の気温は半端なく低いせいか、指先がかじかみ雑巾をうまくしぼれない。
よりにもよって深々と冷える地下だ。あまりの寒さに、オレは早朝から何をしているんだと、厄介な雑念まで浮かんでくる。
鉄格子に背をあずけ大きく白い息を吐けば、地上へと繋がる扉が開いた。
そちらに目をやると、もうもうと湯気の立つ桶を持ったさんが、「おはよう!今日も寒いね」と言いながら近付いてきた。
こちらからも頭を下げ挨拶をしている最中、手っ取り早く冷たく汚れた水の入った桶を奪われ、湯気の立つ桶と入れ替えられてしまう。
ぬるま湯だからちょうどいい温度のはずだとさんは笑顔で言う。
そんなさんの指先は赤くなっており、オレは簡単に息が詰まりそうになった。寒くて赤いのか、重たい桶をここまで運んだせいで赤くなったのか。
もう一度頭を下げ、上ずる声で礼を述べた。


目覚めの悪い日であった。
何度目か分からない悪夢を見た。
オレの友人が、口元をだらしなく開ける巨人に捕まり、ちぎられ、食い殺され、はみ出た頭部は地上へ落下し、横から来た別の巨人に踏みつぶされてしまう。あと一歩のところで手が届かず、助けられなかった。
最悪だ、何故だ、何故このような夢が繰り返されるのか。答えは分かっている。巨人を駆逐することばかり考えている裏腹、どこかで巨人に恐怖の念をいだいているからだ。
あいつらにオレの人生は狂わされた。むしろオレもその巨人になってしまう体質に目覚めた。
胸が痛い。何とも言えぬ苦しみを味わっている自分がいる、何故子供の頃にこの力が目覚めなかったのかと悔しむ自分もいる、力を手に入れて少なからず喜んでいる自分もいる、役目を果たせるのか限りなく不安な自分もいる。
ああ、肩が重い、頭が痛い、辛い。
無意識に右手の拳を壁へ叩きつけてしまい、骨が折れる鈍い音と共に手首が考えられない方向へ曲がってしまった。
激痛に顔を歪めるが、大して焦る必要もない。なぜなら、すぐに治るからだ。
痛む右手など気にもせず寝巻から兵服に着替えていると、兵長が地下牢のカギを開けにきた。
今日も、まずは掃除だ。水を汲みに走り、雑巾で壁を……。今更ながら、その雑巾をしぼれないことに気付いた。情けないほどに右手に力が入らない。
そりゃそうだろう、今はお飾りのようにぶら下がっているだけの手だ。いくらすぐに治るとは言え、そうそう簡単には治らない。
オレは水が滴れる雑巾を持ち、地上へと出た。そしてある人を捜した。おそらくこの早朝から中庭で洗濯を干しているであろう、さんを。
案の定、さんはいた。シーツを干していた。一瞬、その姿が母さんとかぶってしまい、呼吸が荒くなる。
一度深呼吸をし、笑顔でさんに近付いた。
雑巾をしぼってほしいと頼めば、さんは笑いながら快くしぼってくれた。
どうして自分でしぼらないのかと問われ、右手を見せれば、さんは雑巾を地へ落とし目を見開いてしまう。
しまった、咄嗟にそう思った。
すぐに治る体質であることを伝え、あわてるさんを何とか落ち着かせたが、眉を垂れ下げ、目を細めては悲しそうな表情を浮かばせていた。
地へ落ちた雑巾を拾い上げながら礼を述べると、姿勢をかがめたのをいいことに、頭上に軽い痛みが走った。どうやらオレは叩かれたらしい。とはいえ、叩かれのか撫でられたのか、分からぬほどの優しい力で。
頭を上げると、さんはポケットから取り出した手ぬぐいで痛々しい右手を隠すように覆いかぶしてくれた。
「すぐ治るからって、また同じような無茶をしたら今度はグーで殴るよ」と低い声で告げられる。
一人でむしゃくしゃして叩きつけたオレの手を、優しく包み込んでくれるさんの手。
そんなさんの手は震えており、妙な罪悪感に襲われた。


食堂でのことだ。
この日はめずらしく、先輩方とさんを交えて皆で夕食をとった。
右隣にペトラさん、左隣にさんが座っており、正面に座っていたオルオさんから「変な気を起こすなよガキ」と嫌味を言われ笑いが起こったのを覚えている。
昼ごはんを食べずに厳しい訓練を耐え抜いたせいか、目の前にあるトウモロコシのスープとパンがご馳走に見えて仕方ない。
先輩方が食べ始めたのを合図に、自分もパンへとかぶりついた。
大きく口を動かし噛んでいると、ペトラさんはオレの顔を見て噴き出すように笑いだし、オルオさんは「お前は本当にガキだな」などと言ってくる。
すると、さんの手が口元へ伸びてきては、口の周りについていたらしいパンのカスをとってくれた。
ふわりと微笑むさんに見とれていると、突然背後より声がかかりその場の空気は一気に凍りついてしまう。
オレの後ろで不機嫌な雰囲気をかもし出しながら仁王立ちしていたのは、兵長であった。
何故かオレだけに呼び出しがかかり、上品に食べろと叱りを受けたわけだが。
テーブルへ戻り、苦笑いしながらイスに腰掛ければ、ペトラさんとさんが自分のパンを半分にちぎり、兵長の視線を確認しながらオレの皿に置いてくれた。
「成長期なんだからいっぱい食べなさいって。それにね、エレンは無邪気なままでいいの、パンにもかぶりつけばいいの」とさんに言われ、じわりと目頭が熱くなったのを必死に隠した。
叱られた後に優しくされてこの様だ。オルオさんの言う通り、オレはガキそのものらしい。


今、洗濯物を取り込む作業を手伝っている。
兵舎にいる日は必ずさんの手伝いをすると決めているのだ。
それに今日は特別な日なので、時間が許す限りさんと一緒にいたい。
先ほど、訓練が終わったその足で中庭へと駆けつけた。
中庭へたどり着き足元をふらつかせてしまうと、さんは驚きの声を上げ休憩するよう言ってきたが、無理に夕日を浴びるシーツへと手を伸ばした。
元気よく笑顔を見せれば大丈夫だと納得してくれたらしく、それ以上は何も言われずに済んだ。
取り込んだ洗濯物を宿舎へ運び、夕飯を食べに行こうかと話がまとまったものの、さんは団長から呼び出しがあり、あっけなくどこかへ行ってしまった。
すり抜けるように、ふと消えるように、どんどん小さくなる足音を響かせ、オレの前から遠ざかって行く。
ランプが所々に点く薄暗い廊下を一人で歩いていると、食堂へ近付くにつれざわざわと人の気配が増えてきた。
そこでオレは踵を返し、自室である地下へと向かった。腹が減っているはずなのに、まったく食欲がわかない。
鉄格子の扉を押し開け、ベッドに寝転んだ。
何気なく同期の奴らに会いに行こうと考えたが、そこまで自由に動き回れるほど許された身分ではない。
大きく息を吐き、まぶたを閉じた。
もう寝てしまおう。寝てしまえばいい、そのうち今日も終わって、明日が来る。
ベッドの中で何度も寝返りをうち、しばらくして意識がふわりと軽くなり始めたその時、上半身がもそもそと不思議な感覚に支配された。
薄っすら目を開くと、兵長がオレのジャケットに手をかけ脱がそうとしていたもので、飛び起きてしまう。
「寝るならジャケットを脱げ、立体機動装置の固定ベルトも装着したままだと寝苦しいだろ」と意外な言葉をかけられ、唖然であった。
ようするにオレが安眠できるよう、今脱がそうとしてくれていた……のだろうか。即座に頭を下げ、脱いだジャケットをたたみ、その横に固定ベルトを置いた。
オレが楽な格好でベッドに入ったのを見届けた兵長は、鉄格子のカギを閉め、地上へと続く階段を上って行った。
あまりにも意外性のある行動に驚いたが、兵長が皆にしたわれている理由が分かる一面であったように思う。そう、何気ない優しさを発揮できる人なのだ。
さんが兵長のそばに身を置いている意味も、何となく分かる気がした。
枕に顔を押し当て、もう一度まぶたを閉じた。静まり返る地下に少しは慣れたけれど、今日だけは虚しく感じる。
考えれば考えるほど底深くへはまるというもの。やはり寝てしまうのが一番だ。寝よう、寝ようと集中するが、なかなか眠りにつくことができず。
そこへ、とん、とん、と遠くから聞こえてくる足音が耳につき、まぶたを開ける。
階段を下り、扉を開ける音、そしてこちらへ向かって来た。
明日の伝令かと思いつき上半身を起こせば、ひょっこり姿を現したのはさんだった。

「エレン!良かった、まだ起きてた。ああでも、鉄格子のカギは閉まってる……リヴァイめ」

さん、どうしたんですか?」

「ちょっとこっちへおいで」

「へ?」

「いいから!早く早く!」

手招きされるがままにあわててさんの元へ掛け寄れば、銀の紙で覆われた小さな包みを手渡された。
これは何かと聞くと、焼菓子だと返事を返される。

「焼菓子って、え……これ」

「今ね、エルヴィンの書類整理を手伝ってきたんだけど、お礼にって二つもらってさ。一つはエレンにあげる」

「いやいや、もらえませんよ!焼菓子って、高値で売買されている菓子類ですよね?」

「そ!すごく美味しいんだよ。まあ、もらい物だけど、受け取ってよ。いつもお手伝いしてくれて、ありがとね、エレン」

少しだけ背伸びしたさんが、ふわりとオレの頭を撫でてきた。
優しい手が、指先が、とても気持ちいい。
手放したくないその手を、オレは掴んで、気付けば頬にすり寄せていた。

「あらら、どうしたのエレン。甘えたくなった?」

「あの、今日……実は、オレ……た、たっ」

「ん?」

「……いえ!なんでもないです。ありがとうございます、さん」

「本当になんでもない?耳、真っ赤だよ?」

熱を帯びた耳をふいにつままれ、なつかしい心地に心臓が高鳴ってしまう。
さんに頭を下げ、地上へ戻るよううながした。早く部屋へ戻らないと、また兵長が捜しにくるかもしれませんよ、と。
地上へと戻る足音が遠ざかり、ベッドの脇へ腰掛ける。
手のひらには銀色の包みがランプを鈍く反射しており、輝いていた。

「今日、オレの誕生日なんです」

かすれる声でつぶやくが、もちろん返ってくる言葉はない。ただ脳内でミカサやアルミン。そして明るいさんの声が、おめでとう、と言ってくれた。
再び静まり返った地下で銀色の包みを開き、甘い香りのする菓子を一口かじってみる。幸せを感じるほどの美味しさであった。
焼菓子を食べ終え、両の頬を叩き、「よし!」と大きな声を上げる。

(さあ、さっさと寝て、明日も頑張ろう!)





また、あの手に褒めてもらえるように








*END*







-あとがき-
エレン、お誕生日おめでとうございます!
「その手」をご覧くださいまして、ありがとうございます!
なんとなくですが、エレンは自分の誕生日を言わない気がして……こんな不憫な夢を書いてしまいました。全力でごめんなさい。
むしろ彼は誰かに言われて気付きそうな気さえしませんか。「あれ、そういえば昨日ってオレの誕生日だったっけ。まあいいか」という感じに……おおおい!
なんであれ、エレンや皆が毎日を笑顔で過ごす日がくることを祈っています。
ありがとうございました^^

2014年3月30日