大好きな本。
文字で埋め尽くされたものではなく、絵がメインの漫画。
ある漫画が好きで好きで、その中の8巻をここ一年ほど一日に一回は読んでいた。
漫画の中に存在するキャラクター、それはそれはかっこよくて惚れてしまいそうになるほど男前。
こんな人がいたらなぁ、と思う日常が繰り返されるが、所詮は紙に描かれた架空の人物なのであって。
しかし最近、私は好きな人ができた。もちろん現実の人。
それからというもの、その漫画を開くことが少なくなり、漫画を読む時間が好きな人に費やす時間となってしまった。
事の始まりは私の感情が本から人へと移ったこと。
いけなかったのだろうか、好きな人ができた事で本を裏切ってしまったのだろうか。

夜が、怖い。





8巻





あの本を開かなくなり約一週間。私は今日も家に帰ってきては携帯ばかりを見ていた。
先日好きな人から突然メールアドレスを聞かれ、もちろん交換し今もメール中。
打ったメールに誤字は無いか、絵文字はこれを使っても変に思われないか、そんな些細な事まで気にかけてしまう自分がおかしい。
久しぶりの恋愛に感情がくすぶられ本当にドキドキしてしまう。乙女心というやつだろうか、いや、そんな言葉私には似合わないけど。
彼にメールを送信して約10分。そろそろ返信がくるはずだ。
自室で一人にこにこしながら携帯を見ていると待受画面から受信画面に切り替わった。予想通り!
受信完了の文字が出るまで携帯をじっと眺めていると。

バサッ

何かの落ちる物音がして即座にそちらの方を振り向いた。そこには本が一冊フローリングに横たわっていて。そう、私が以前毎日読んでいたあの漫画の、8巻。
一方携帯は受信が完了したのか着信が鳴り始めた。もちろん今の私が重視するのは本よりメール。メールを読みながら本に手を伸ばし、どうして落ちたのかなど何も考えずそのまま棚へと戻した。
ただ、お風呂から自室へ戻ってきた際も再度その本が床に落ちていたのには多少驚いたが、考えても何も思いつかないのでまた棚へと戻し布団に入った。
枕元の横に携帯を置いてその日は就寝。

翌朝、寝覚め最悪。何かに押しつぶされるような夢を見た。
寝て疲れをとるはずなのに、寝て起きたら疲れてるってどういうことだろう。
むしゃくしゃする頭で着替えを済ませ、洗面台へと行き水で思いっきり顔を洗った。乾いたタオルに顔を押し付け、鏡に移る自分を見る。
目下のクマに気分は落ちるばかり。あきらかに寝不足の顔だ。
こんな顔を好きな人に見られてしまったら……ん、あれ、なにこれ。
首筋に一か所、赤紫色に変色した肌。鏡に近づき見てみると内出血していて、寝ている間に無意識にかきむしったのかと後悔した。
今日は朝からついていない。
ため息をつきながら朝食を取り、両親に顔色が悪いと心配されながらも覇気のない足取りで家を出た。

帰宅後、朝の厄なんて忘れてしまうほどに嬉しいことがあり気分上々。好きな人からお誘いをもらった。今度二人でどこか食事へ行かないかって。嬉しくて嬉しくて笑顔でOKの返事を返してしまったが、大変だ。服や靴や何を着ていけばいいのか。
考えるだけで頬がゆるみ楽しみが増すばかり。
浮かれた足取りで自室へ入り電気をつけたその瞬間、本棚から本が落ちた。
何の本が落ちたのか、遠目から表紙を見てみるとやはり昨日と同じあの本が落ちてきたようだ。
驚きのあまり数歩後ずさり見開いた目で本を見つめていると、更に信じられない光景が起きた。
本の下からじわりと湧き出てくる、水。
水がフローリングを伝って細い道を作り、一直線にこちらへ伸びてくる、伸びてくる。

……やだ、なに、気持ち悪いっ

私は必死に母を呼び、その場から逃げた。

「お母さん!お母さんってば!」

「そんな大声で呼ばなくても聞こえてるわよ。なに、どうしたの?」

「本が落ちてきて!水が、水が出てきて!私の方に流れてきて!」

「は?部屋で水こぼしたの?」

「違うよ!本当に本から水が出てきたの!」

夕食の準備をしていた母は私の発言に顔をしかめたが、とにかく一緒に部屋まで来てくれるよう説得した。
母が先頭を歩き、その母の腕をがしりと掴んで怖々と後を歩く。
部屋へ着き、母が首をかしげた。

「本なんてどこにも落ちてないじゃない」

そんなわけない、と私も部屋を覗いたが本当に落ちていなかった。本は濡れもせずきちんと本棚に収まっている。
母はもうすぐご飯だからね、とだけ言って部屋から出て行ってしまった。本棚を見つめながら、うん、と生半可な返事をし何となく本に手を伸ばす。
この前までは日常茶飯事の如く読んでいたこの漫画の、8巻。
久しぶりに表紙をまじまじと見てみれば大好きなキャラが以前と変わらずそこにいて、その顔が不思議と優しく微笑んでるように見えた。
そのまま本を開けようとしたが鞄の中で携帯のバイブが響き始めたので棚へ戻した。彼からのメールだ、意味の分からない恐怖で沈んでいた気分が一気に上昇する。
さっきのは何かの見間違い、という事にしておこう。気にしていると楽しい事も沈んでしまう。

この日はその後何事もなくいつも通り眠りに就いた。
もちろん、枕元に携帯を置いて。





背中が痛い、背中が痛い、誰かが私の背中に何かしている?
耳には破壊音が入ってくる、何、何を壊しているの?






飛び起きた。
夢の中で何かが背後から私に覆いかぶさろうとしてきて、ああ最悪だ、体中汗でびっしょり。
時計を見れば午前5時過ぎ。パジャマを脱ぎ捨て汗を拭きとり、新しいパジャマを出すのが面倒だったので下着姿のまま横になった。
なんとなく枕元の携帯に手を伸ばしてみたが、携帯じゃない手触りがそこにあって。
何かと振り向いてみれば、本が、一冊の本が。
つい小さな悲鳴を上げてしまい、本を枕元から手の甲でなぎ払った。
数分息が上がり落ち着いたその時まで気づかなかったのだが、携帯は、携帯はどこへいったの。
なぎ払った本の下、布団の中、周りを探すがどこにもない。
立ち上がり机を見に行こうとしたらゴミ箱に探している色が見え、まさかとは思うが覗いてみると、ハンマーで殴られたかのような形状で携帯が捨てられていた。
急いで拾い上げクモの巣状にヒビが入った画面を見つめる。
電源ボタンを押すが、機動しない。

ありえないでしょ、誰が、こんな。

私はなぎ払った本に視線を向けた。
ああ、見なければ良かった、また本から水が溢れ一筋の細い道を作りこちらへゆっくり流れてきている。
これは見間違いでも夢でもない、目の前で起きている事は現実だ。
どんどんせまってくる、ゆっくりだが確実に水が私の足元へ伸びてきている。後ずさる事もせず、ただ水を見ていた。
意識が遠のき私は倒れたのか、朝起きるとフローリングに横たわっていた。顔のすぐそばで本も同じく横たわり水は綺麗に消えていた。
この本は呪われている?呪とかそういうのよく分からないけど、大好きだった一冊が起こす不可思議現象。
ふらつく頭で起き上がり本を捨てようと考えたが、どうしても捨てる気になれず大人しく本棚へ戻した。
着替える事も忘れ下着姿のまま洗面台へと足を運びいつも通り顔を洗う。鏡に写る顔はひどいものだった。クマは昨日より広がり、肌も少し荒れ始めている。溜め息をついていると、そこへ母が来た。
すると母は私を見るなり目を見開き、どうしたの、と駆け寄ってきて。

「どうしたのって、顔のクマ?」

「違うわよ!あんた、背中!あちこち内出血してるわよ!?」

私も目を見開いた。
慌てて背中を鏡に映し見てみると、軽く悲鳴を上げてしまった。背中一面、内出血の跡があちこちに散らばっていて。正直、自分の背中が気持ち悪いと言い切れるほどに。
夢の中でひたすら背中が痛かった記憶がかすかに残っているが、あれは、現実?夢じゃなかったの?
全く理解できない、どこからが現実でどこまでが夢なのか。
母がひどく心配してきたので、とりあえず笑顔を作りいっぱいかきむしったのかも、と無理にごまかした。
昨日の首筋、今日の背中、寝ている間に何があったのか。

その日も普段通り朝食を食べ家を出た。
壊れた携帯は携帯ショップへ出向き修理してもらおうと試みたが、修復できないと言われ同じ機種で新しい携帯を格安で手に入れた。
それはいいが、好きな人とのメール履歴が全て消えてしまったこの事実が一番辛い。

そしてまた夜がやってくる。
新しい携帯を枕元に置き、布団にもぐる、が、怖い。寝るのが怖い。けど、寝ないと明日が辛いし。
寝よう、寝よう、大丈夫、今日は何もないと信じよう。両手を握りしめ思い切って瞳を閉じた。
楽しい夢が見れますように。





ハァッ……っハァ………

お……もい、息苦しい……っ






寝る前の願いなど無視するかのように、これは金縛りだろうか、身動きがとれず呼吸も苦しい。
怖々薄っすら瞳を開け胸元を見てみると、何かが私の上に覆いかぶさっていた。幽霊?!とっさにそう思った。
首筋にねとりとした感覚を感じ、寒気が走る。舐め上げられている、生々しい音までもが聞こえる。
私はこれでもかというほどに震え出し、食い込むように瞳を閉じた。
それに相手が気づいたのか、舐める行為を止め頬を優しく撫でてきた。

「僕を見て下さい」

初めて聞く声。男の声だ。

「おや、見てくれないのですか。最近のあなたはひどいですね」

最近の私?この人、誰。

「同じ本がこの世に何冊あろうと、その一冊一冊がこの世に一つしかない」

何が!?それより早く私の上からどいて!

「あなたが所持している本も同じくこの世に一つしかないんです、分かりますか」

分かるような、分からないような。
いきなりこの人は何を言っているのか。

「毎日のように本を開き僕を見てくれていたのに、僕もあなたを本の中から見ていたのに、ここ最近どうして会いにきてくれないのです」

本の中から私を見ていた?
馬鹿げてる。本の中から見るなんて、あなた何。

「まあ、理由は知っていますけどね。忌々しい現実の男、腹立たしい限りですよ」

「……あの」

「やっと口をきく気になってくれましたか」

「あなた、誰?」

「六道骸です。あなたはさんですよね、ええ、知っていますよ」

心臓が飛び跳ねた。
私の名前を知ってる!?とういか、六道骸って冗談にもほどがある。と言いたいが、ここ最近のおかしな一冊の本を見ていたので嘘とも思えない。この男の発言で様々な事が一瞬にして結びついた。
もしかして、私の体中の内出血といい、携帯が壊れた災難といい、この人が。

「察しがいいですね、全て僕がした事ですよ。あなたが会いに来てくれないので少し困らせてやろうと思いましてね」

「けど、ありえないよね、本の中の人がそんなのできるわけないでしょ!あなた本当は何?幽霊?それとも不法侵入者!?」

「現実を受け止めたらどうですか。僕は紙に描かれ生まれた人間です。そしてあなたの所持する本の六道骸、分かりますね?」

この本に存在する僕は今ここにいる僕です、頭が混乱するようなセリフをつけ加えて顔を近づけてきた。
分かるわけがない。どう理解しろっていうの。
暗くてよく見えないが、本で見た良く知る顔なのは間違いなかった。
ああ、分かった。これも夢なんだ。本の中の人物が現実に出てくるわけ、ないもの。

「あなたは好きな男なんて作ってはいけないんですよ、僕を見捨てるようなまねしないで下さい」

「勝手に決め付けないで!ようするにあなたが活躍する本を開かなくなった私に問題があるって言いたいの?」

「その通りです。本の中の人物は、現実の人間に読まれる事だけが唯一の楽しみ」

すると突然私の首元に顔をうめてきた。何するの、と叫べば、あなたは僕の物だと分かるように印をつけなければ、そう言って私の肌をきつく吸い上げた。
その行為で理解した。背中や首筋の内出血、キスマークだったんだ。
こんな、こんな……!



「やめ、て!」

「大人しくして下さい」

「やだ!こんなの見られたら勘違いされちゃうじゃない!」

「それが目的ですよ、さんには僕という男がいる、そう知らしめないと」

「どうして?私はあなたの事そりゃ好きだけど、それは本の中の人物だから理想であって!」

「理想で終わらせるのですか?僕を愛してはくれないんですね」

「は?だって、あ、だからやめてって!痛っ、やめて!」

必要以上にひどく吸い上げられ肌がビリビリする。
私が抵抗するが一心無乱に唇を這わせては吸い上げられるばかり。
いい加減私の肌も麻痺してきたのか、感覚があやふやになってきた。

「このぐらいでいいでしょう、ああ、少しつけすぎてしまいましたね」

「ひどいよ、もう感覚がない」

「綺麗ですよ、よくお似合いです」

言葉を失った。
私の首筋を撫で、うっとりした瞳でこちらを見てくる彼は、まるで恋人を見るかのような顔つき。
夢なら早く覚めて欲しい。
こんな生々しい夢、気分が悪い。

さんも僕の首筋に印をつけて下さい」

彼の要望を拒んだが、キスマークを一つつけてくれれば本の中へ帰ると言い出しだので、いやいや彼の首筋を吸った。
彼の肌に体温は無かった。しかし抱きしめてくる腕は怖いほどに力強い。

「ありがとうございます。では、またお会いしましょう」

一気に体が軽くなる。
彼は消え、私の胸元に一冊本が乗っていた。やっと夢が覚めたのだろうか。
錯乱する頭に眠気が差し瞼を閉じると、その後は嫌な夢も見ずにぐっすりと眠れた。

その日から不可思議な現象が収まった。本も棚から落ちる事がなくなったし、変な夢も見る事がなくなった。
ただ、思いを寄せていた現実の彼は、突然仕事を退職し連絡は途絶えてしまったが。
人生いろいろだ、こればかりは仕方のない事だと自分に決着をつけ日々を過ごした。

ある日、久々に例の本を開けてみた。
先日の現象はなんだったのか未だに理解できないが、ただ一つ、私はみつけてしまった。
最初は汚れかと思った。
表紙、彼の左側首筋が少し黒ずんでいる。

これって、私があの時つけた……。

その瞬間、表紙の中の彼の口端が釣り上がった。







-END-





あとがき。
自分で書いてて途中から寒気してきました(あほですかお前)
また変なの書いてしまいました、ごめんなさい。
同じ本がたくさん売られていても、全てこの世に一冊しかない、本。
あなたが選んで買った本もこの世に一冊しかなくて。本がやきもち妬いちゃうなんて聞いたことないけど(あったら怖い)
とかね、そんな事があったら一大事ですが、まあこの世の中いつ何が起きるか分かりませんので日々お気を付け下さい。おいおい。