記憶6




散らばり落ちた、髪。

唖然とする私の横へ片ひざをついたリヴァイは、今までさえぎっていた髪が無くなり丸見えとなった横顔をまじまじと見つめてきた。
三日間ろくに食事と睡眠をとっていない肌はリヴァイを不機嫌にさせてしまったのか、言葉を交わす前に舌打ちされてしまう。
……舌打ちしたいのは、こちらである。
顔が見えないから横髪を切り落としたと言われたが、矛盾だらけだ。
横髪など耳にかければいいだろう。痛いのは勘弁だが、手っ取り早く掴み上げるのも一つの手。よりにもよって切り落とすなどよく考えついたものだ。それに、今私が腕の中に顔を伏せてしまえば横からも正面からも見えなくなる。
単に言うことをきかない私が気に食わず困らせてやろうと考えついたに違いない。私が目障りで仕方ないのだ。リヴァイの表情がそう物語っている。眉間に密集したシワ、嫌に細められた目、再度舌打ちを飛ばしてきそうな口元、いまにも殴り飛ばされそうな雰囲気だ。
ただ私も気弱な性格ではない為、湧いてくる感情は怒りである。
今すぐ叫んで怒りをぶつけたいところだが、情けないことに大きな声が上手く出せなかった。声か、息か、かすれるような何かがのど元からあふれ、直後には咳き込んでしまう。
空腹が限界を達しているせいか床へ座っているだけでも辛い状態であり、今すぐ身体を横にしたい誘惑が襲ってくる。だが、耐えた。
これ以上弱々しい自分を見せたくない気持ちは強い。意識だけははっきりしていることが唯一の救いだ。
早くリヴァイが私の側から離れて行くことを願い、下唇を強く噛んだ。
顔をうつむかせ床に落ちている自分の髪を目の端で見ていると、リヴァイは手に持っていた短刀を懐へ仕舞い立ち上がる。
意外にも早く私の願いは通じたようだ、そう良いように思っていたのも束の間、何故か私の背後へ回り込み抱き締める形で身体を密着させてきた。
次は何の嫌がらせかと身体を強張らせていると、徐々に加わってくる尋常でない力は節々を痛く締め付けてくる。反抗心からもがいたが、いとも簡単に拘束具をはめられている手足を動かぬようねじ伏せられ、下からアゴを掴まれている状況へと追い込まれた。先ほど短刀を見たせいか、背後から刺されるのではないかとドッと恐怖が押し寄せてくる。
今こそ本気で悲鳴を上げるべきなのかもしれない。しかし、都合良く大きな声が出るはずもなくアゴを掴まれているせいで咳き込むことさえできない。目を開けている勇気もなく、きつくまぶたを閉じるのが精一杯であった。
そこへ口元に硬いものを押しあてられ、上下の唇の間をねじり込むように口内へと何かを放り込まれた。パンではない、表面がざらりとしている。あわてて吐き出そうとするものの、分厚い手のひらで口を塞がれどうすることもできなかった。リヴァイの力は強すぎる。大人と子供、更には男と女だ。当然なのだろうが、敵わない。
意味の分からない物体を口内へ押し込まれ、拘束具のついている手足を動かすこともできず、あまりの無力さから全てが恐ろしくなり下半身がうずき始めてしまう。
そこへ、ただ一言「噛め」と耳元で囁かれた。
一秒でも早く解放されたいが為、うずく下半身を最大限引き締め、震える歯でざらつく物体を噛んだ。
物体の中は柔らかく、次第に歯にしみるほどの甘さが口内に広まり目を見開いてしまう。

「……どうだ、最近人気の焼菓子だそうだ。これなら食欲も出るか?」

焼菓子?初めて口にする食べ物だ。視界が歪むほどに美味しい、なんだこれは。
三日ぶりの食事がここまで甘いと唾液が恐ろしいほどにあふれ、口の端から流れ落ちてしまう。おまけに更なる空腹感が倍増し苦しくて仕方ない。焼菓子を飲み込んだ後も口内に残る甘味が唾液をあふれさせる。甘さの混じる唾液を何度も何度も飲み込み、その度にノドが鳴った。ごくりと。
そこへ表面が茶色で追われている物体を差し出された。口の前まで近付いてきたところでほんのり甘い香りが鼻につき自らかぶりつく。おそらく焼菓子だろう。リヴァイの指まで口内へ入れてしまったが、焼菓子だけを歯で奪い、噛む、噛む、噛む。ああ、甘い。
「急に食い気だしやがって」と、嫌味を言うリヴァイはどこからか真っ白の布を取り出すなり自分の手を拭く前に私の口元を拭いてくれた。
焼菓子はもうないと告げられパンを差し出された途端、ハッとする。三日間、リヴァイから差し出される食事を避けていたというのに、一瞬にして終わってしまった。
しばらくパンを見て固まっていると、背後より呆れるような溜め息が聞こえた。リヴァイはパンを近くのテーブル上へ置き、何故か私を担ぎ上げる。そのまま強引にお手洗いへ連行された。食事中に下半身をもぞもぞさせるなと、吐き捨てながら。うずく下半身を引き締める為、どうやら無意識に足を動かしていたらしい。
トイレへ連れ込まれるなり手足の拘束具を外され、扉を閉められた。
拘束具、を……。
この三日間、一切外してくれなかったというのに。素直に焼菓子を食べたからだろうか。
用を足し終え扉を開けると、そこにリヴァイはおらず、部屋の端で中腰になり床に散らばる私の髪をかき集めている姿を見つけた。
側まで行くとソファーに座っているよう声をかけられたが、少し距離を開け床へと座る。

「聞こえなかったか、ソファーへ座っていろと言ったんだ」

「床でいい」

「いい加減、言うことをきけ。さっさとソファーに座れ」

「……知らない。床でいいの、もう寝る」

「ソファーに座ることすら拒否されるとはな。そんなに俺が嫌か」

「だって、リヴァイは恐怖でしかない。さっきも背後に回り込まれたとき、短刀で刺されるんじゃないかと思った」

「……そうか」

信用されている欠片もねぇな、そうつぶやき再び髪をかき集め始めた。
笑いそうになった。ここまでリヴァイを避けている私が信用などあり得ないだろう。よくその言葉が出てきたものだ。
やたらと空気を感じるようになった左頬に触れると、荒れた肌がとても冷えていた。髪が無くなっただけでここまで表面温度が変わるものなのか。
リヴァイは昔から私の様々なところを冷やしてくる。特に冷たい言葉や態度は心を氷づけにされてしまう。厄介なのは、氷づけにされると溶けるまでに時間がかかるということ。地下街にいた頃は逃げても逃げても捕まり、暴言を吐かれ、頬を打たれ、心も希望も冷え切っていった。溶ける日などなかった。とにかくリヴァイから解放されたいと考えていた矢先、エルヴィンが突然現れた。その日より私の心はぬくもり始めたのだ。
エルヴィンとハンジさんはあたたかかった。
……差が、ありすぎる。

髪をかき集め終えたのか、リヴァイは手を洗いに水場へ行き、戻ってくるなり再びこちらへと近づいてくる。私の真正面で足を止めたようだ。ふと伸びてきた手は冷えた左頬へ触れてきた。驚くことにその指先は左頬よりも冷たく、どこまで冷たい人なのだと吐き気がした。
拘束具をはめられていないのをいいことに、リヴァイの手をはらってやった。触るなと、一言添えて。
案の定、今の態度はまずかったらしく頬を打たれ、冷えていた肌は痛みと共に熱くなる。これで終わりかと思いきやもう一度手のひらが直撃した。ただ、その一発が驚くほどに強烈で身体ごとふっ飛び床に倒れ込んでしまう。何が起こったのか理解できず、身体を起こす気力もなく、頭に響いてくる狂うようなにぶい耳鳴りだけが今の最悪な状況をはっきりと物語っていた。
打たれた頬と耳を手で覆いリヴァイを見ると、またしても手が振り下ろされる瞬間であった。先ほどと逆の右頬を打たれ脳天にまで痛みが響いてくる。このまま殴り殺されるんじゃないかと思った。口の中に残る甘味が不快で吐き気が込み上げる。
痛くて、苦しくて、怖くて、逃げ出したくて、頬を打たれただけなのに驚くほど簡単に意識が遠のいていった。

――何度も考えたことを、今も考えている。
何故、私はリヴァイに拾われたのだろう。どうして、うっとおしい存在を側に置いておこうとするのだろう。
これだけ強く私の頬を打ったのだ、自分の手も痛いはず。怒りに満ちるほど邪魔なら手放せばいいじゃないか。
先日、金が目的なのかと聞いてみたがあっさり否定された。その際、何も知ろうとせず俺の言う通りに従えばいいとも言われた。
ただ自分の命令に従う召使いが欲しいのだろうか。従うといっても、地下街にいた頃から掃除や身の回りの世話は自分でしていたようだが。
他に考えられるとしたら殴りたいときに殴れる人間が欲しい、と。これは大いにあり得る。
理由が何であれ、いくら考えても最悪な予想ばかりが思い浮かび頭に痛みが走った。あらゆる方角から針で刺されているような感覚、気持ち悪い、気持ち悪い。
針はどこまでも追いかけてくる、逃がしてはくれない、四六時中刺され続ける。背後の気配に振り向けば見上げるほどの大量の針が積み重なって……。
そこでハッとした。自然とまぶたが開き、違和感を覚える。明るい天井、窓から陽が差しこんできている。陽の傾きから今は朝のようだ。
昨夜、頬を打たれた直後に意識を失い、ここは……ベッドの上か。上半身を起こすと、心臓が脈打つたび顔全体にも鼓動が響いてくる。
両の頬に触れれば、感覚がなかった。まさか感覚がないほどに腫れているのか。ふと戸棚のガラスに映る自分の顔が視界に入り、驚いた。これは見れたもんじゃない。額に手を添え顔をうつむかせると、昨夜に引き続きにぶい耳鳴りが聞こえてきた。強く打たれたせいで耳が壊れたのだろうか。

「ちょっとエルヴィン、本当にいいの?リヴァイの部屋に勝手に入るなんて」

「心にもないことを言うな。むしろ早く開けろと言わんばかりじゃないか」

耳鳴りに混ざり廊下から聞こえた声。
部屋を見渡せばリヴァイの姿はない、というか、今の声は……。
呆然としていると、扉が開いた。勢いよく部屋の中へ飛び込んできたのはハンジさんである。ハンジさんに続きエルヴィンも部屋へ入り扉を閉めた。
そして、ベッドの上にいる私の姿を見つけるなり二人は固まるように足を止め、見開いた目をこちらへ向けてきた。
今、二人が何を考えているか、わかる。あわてて近くにあった枕を顔に押しあて、二人の目に映らないよう隠した。
会いたかったはずの二人が目の前にいるのに、素直に喜ぶことができない。
「なるほどね。どおりでリヴァイの機嫌がいつも以上に悪いわけだ」そうハンジさんはつぶやき、溜め息を吐きながらこちらへ近付いてくる。
ゆっくりとベッドの片側が沈んだ。枕の隙間からのぞき見ると、ハンジさんがベッドの脇に腰掛けていた。

、今辛い?」

「……うん」

「最近、リヴァイもずっと辛そうな顔しててさ。二人とも仲良しだね、辛そうな顔がおそろいだなんて」

ハンジさんは会話をしながら足首を触ってきた。「これ、枷のあとじゃないか」と声を上げる。枷、つまり拘束具で変色した肌が気になったようだ。
あまり見ないでほしい。ここまでやられっぱなしの姿など、自分がとても弱い人間に思えてならない。
そこへ頭にふわりとあたたかい何かが触れた。手だ、間違いなくエルヴィンの手だ。
にここまで暴力を振るうとはな」と、低く優しい声。

「リヴァイがここまで荒れる心当たりが一つある」

「それって私が気に入らないだけなんじゃ」

「違う。自覚の無い病にかかっているのかもしれない」

「病?リヴァイが?」

は、ファーランとイザベルを知っているか?地下街ではリヴァイの仲間だった二人だ」

ファーランとイザベル、一度だけ会ったことがある。いいや、正確には見たことがある。
私が住んでいた場所へリヴァイが一晩だけ身を隠す為だと男女二人を連れてきたのだ。
そのときに二人を呼ぶ名がファーランとイザベルだった記憶が薄っすらと残っている。
だが、私は隠れているように指示されたのでそのへんの布を全身に巻き付け棚の影へ身をひそめていた。

「……見たことはあるよ」

「そうなのか?一緒に暮らしていたのだと思っていたが」

「リヴァイは私が気に入らないのか、誰とも会わせてくれなかった」

あの日、三人は声をひそめて会話をするもので、妙に気になりのぞき見したのだ。そこで二人がリヴァイに笑顔を向けていたのを見た。
リヴァイも満更でないように落ち着いた表情をしており驚いたのを覚えている。

「誰とも会わせてくれなかったとは、リヴァイも徹底したものだな」

「あ、一人だけ……フリルとだけは会ってもいいって言われて」

「フリル?」

「フリルはね、男性だけど女性なの」

「ああ、なんとなくリヴァイからも聞いたことがあるような……」

そこで「話が脱線してるよ」とハンジさんの一言に、エルヴィンは軽く咳払いをした。
ファーランとイザベルの名前が何故出てきたのかと思いきや、二人も同じように地下街から調査兵団の兵舎へと連れてこられたのだと教えられた。
リヴァイ、ファーラン、イザベルは数々の犯罪を起こしていたが、兵団最大の武器である立体機動装置を使いこなしていたことから調査兵団の兵士になる取引を持ちかけられた。その取引を断れば憲兵に引き渡されていたとのこと。もちろん三人は兵士になる選択をした。

「彼らが入団して数ヵ月後、壁外調査が行われた。そこでファーランとイザベルは死んだ」

「へ?」

「死んだんだ」

死んだと聞き、耳鳴りが激しくなった。リヴァイに向けていたあの二人の笑顔が灰色に染まり上がる。
エルヴィンの言葉は続き、二人は巨人に食い殺されたのだと聞かされた。
巨人がどのようにして人間を食べるのか、むしろ巨人がどのような姿なのかも知らないが、絶望に満ちた悲惨な情景が何となく浮かび上がる。
……話を聞いているうちに、腫れた頬や、切り落とされた横髪など可愛いもんだと感じてしまった。

「壁外調査から帰還し、リヴァイは俺にあることを申し出てきた」

に会わせてほしいって、エルヴィン懇願されてたよね」

ハンジさんは苦笑いを浮かべ、「まあ、リヴァイも感情を持つ一人の人間だから」そう低い声で一言付け加える。
その頃の私はエルヴィンの部屋で生活をしていた為、リヴァイとは一切顔を合わすことが無かった。むしろエルヴィンとハンジさんは、リヴァイと私を会わせないように遠ざけていたという。
リヴァイが調査兵団の一員として意識が高まるまで会うことを避けるよう仕組んでいたらしい。話を聞いていると、頑張ったらご褒美をあげよう、そんな言い方に聞こえた。
エルヴィンとハンジさんはとても優しい印象しかないが、厳しい一面もあるということ。今、覚えた。

「人の何倍も努力をし、例外的な役割とはいえ兵士長という座を得た。今となればリヴァイは調査兵団に欠かせない人物だ。仲間や部下にも信頼されている」

「そっか、リヴァイはすごいんだね……」

「日々努力しているリヴァイが、唯一心休まる場所と言えば、やはり自室だろうな。そう、会いたかったが待っているこの部屋だ」

「まさか、私の存在なんてうっとおしいと思ってるよリヴァイは」

「うっとおしいなどと思っていたら、仕事が終わった夜に馬を走らせ遠い町へ焼菓子を買いに行くと思うか?おまけに昨夜は雪が降っていた」

エルヴィンの言葉に全身の鳥肌が立った。
表面がざらついており、中は柔らかく、甘い。昨夜、その焼菓子を私は二つも食べた。
冷えた頬に触れたリヴァイの指先がもっと冷たかった理由は……。
私はその手をはらってしまった。更には触るなと傷つく一言まで添えて。

「だがと気持ちが通じ合わない。リヴァイは心が疲れているのだと、俺は思う。ある意味、病だろう?」

「……私の、せい」

今の話を聞かされたあとでもリヴァイという存在は恐怖でしかないが、罪悪感がたまらなくあふれてくる。切り落とされた横髪は納得いかないが、打たれた頬は当然のように思えた。
そこで顔を押しあてていた枕を奪われた。あわてて顔を上げるとハンジさんが枕を持っており、すかさず私の頬へ手を添えてくる。
「わあ、ぱんぱんに腫れて、痛そうだね。リヴァイはこれでも手加減してるんだろうけど、まったく」と、頬を指先で撫でながら笑顔を向けられる。

、あのね。リヴァイをどう思うかは自由だよ。でも、『ありがとう』と『ごめんなさい』はきちんと言える人間になろう」

「そんな、小さな子供じゃあるまいし」

「これは大人も子供も関係ない。自分の気持ちを相手に伝える、とても大切なことだよ」

「……私がその一言を言えば、リヴァイの心は少しでも癒えるかな」

「もちろん、癒えるどころか嬉しくなるだろうね」

「そっか。うん、わかった」

「よし!さすがだね!理解力が素晴らしい!」

言われてみれば、だ。
私は焼菓子を食べるだけ食べて何の礼も言わず終わっている。
今夜、言ってみよう。あと、手をはらいのけた謝罪もしないと。
謝罪といえば、まずは目の前にいる二人にもしなければならない。何がしら迷惑をかけていることに違いはないのだから。
二人に頭を下げ、ごめんなさい、そう告げるとハンジさんは素っ頓狂な声を上げた。

「いやいや、私達には謝らなくていいから!それにしても夕食を一緒に食べようって計画してたのに、こっちこそごめんね。リヴァイったら心配性でさ」

「あ、そう、それ!もう一緒に夕食は食べれないの?」

「今もねばってるよ。いつか一緒に食べれるようにするから、待っててね!」

「うん!ありがとう、ハンジさん。エルヴィンも、ありがとう」

二人の笑顔に包まれてホッとした。久しぶりの安心感だ。
二人の手をにぎり腫れた頬を引きつらせながら私も笑顔を向けると、「なんというか手放したくないリヴァイの気持ちがよくわかる」とエルヴィンがつぶやき、ハンジさんも大きくうなずいた。
手放したくない?なら、と二人の手をしばらくにぎり続けることにした。

感情が落ち着いたところで、ハンジさんが私の短くなった横髪を指先で梳いてきた。
もう片方の手をアゴに添え、何やら考えている様子である。

「今朝任務から帰還したはず、今は部屋で休んでるってとこか。うん、よし!行くよ、!」

「は、え、どこに?」

「私の友人の部屋。ほら、立って立って!」

ベッドから引きずり降ろされ、転びそうになりながら何とか踏ん張った。
エルヴィンに事情を説明するハンジさんは、リヴァイが部屋に戻らないよう見張っといてね!と最後に大きな声を上げた。
手を引かれ部屋から出た。あれほど逃げ出す為に部屋から出たい出たいと考えていた境界線を、あっさりと超えた。
ハンジさんの背を見上げると、大きく輝いて見えた。なんて頼もしいのだろう。
階段を下り、廊下を歩き、とある部屋の前で足を止めた。正面にとらえた部屋の扉をハンジさんは遠慮もなく何度もノックし始める。

「おーい!私だよ、ハンジだよ!頼みがあるんだ、寝てるのー?起きて!起きて!」

「ちょ、ハンジさん……!」

すると数センチほど扉が開き、「ハンジ、私は疲れてるの」と怒りの声が聞こえ、私が肩をびくつかせてしまう。
だが、ハンジさんはこれみよがしに扉の隙間へ手と足を突っ込み、部屋の中へ入り込んだ。恐ろしいほどの度胸である。
その際、扉の向こう側で金髪の頭が見えた。

「やあ、久しぶり!で、頼みを聞いてほしいんだ。あのね」

「二日間寝てないんだ……勘弁して」

「この子の髪を切ってくれないかな?兵団一手先が器用でしょ?ね、頼むよ」

ハンジさんの勢いが圧倒的すぎて、会話が成り立っていない。
ただ「髪」と聞きようやく理解した。ハンジさんは今の私の髪型をどうにかしようと頼みこんでくれているのか。
どこまでも気付いてくれるハンジさんに、胸が痛くなった。しかし、髪型などさほど気にしない。いずれ伸びてくるのだし、頻繁に誰かに会うわけでもない。
何よりハンジさんの友人に迷惑をかけるわけにはいかないだろう。言い合う二人の間に入ろうと顔をのぞかせると、恐ろしいほど綺麗な顔をしたその人がハンジさんに攻め寄られ少々のけぞっていた。
(……こ、こんなに綺麗な人、初めて見た)
今の自分がぼろぼろであるだけに、みじめな羞恥からあわてて顔をうつむかせる。

「もう、ハンジ近い。で、この子って兵士かい?ん、あれ、どうしたの?下を向いてないで顔を見せて」

「ああっと!えっとね、今日は顔がぱんぱんに腫れてて、ひどい顔を見られたくないんじゃないかな!それと兵士じゃないよ、ちょっと特別な子」

ハンジさんはっきり言いすぎ!と心で叫びつつ、うなずいておいた。
立ちつくす私の手を、前から伸びてきた色白の手に掴まれ、部屋の中へと引き込まれた。
手首の変色した肌を指先で撫でられ、「なるほど、わけありってことか」そう美形さんはつぶやく。どうやら先ほどのハンジさんと同様、拘束具をつけられていた痕だと気付いたらしい。手首、足首に浮かぶ青紫色。恥ずかしいったらない。

「わかった、まかせて。この子あずかるよ。二時間後に迎えに来てあげて」

「ありがとう!今度食事をおごるよ!」

「はいはい、楽しみにしてる」

綺麗にしてもらってね、とハンジさんは言い残し部屋をあとにした。
とはいえ、私はどうすればいいのかと顔を上げようとしたが、やめた。初対面の相手に見せれる顔じゃない。失礼に値する。
そこで美形さんは何かを棚から取り出し、私に差し出してきた。それを受け取る。真っ白な一枚の布であった。
「顔を見られたくないんだよね、それで隠しておくといいよ。ずっと顔をうつむかせているのはしんどいでしょ?」となんとも優しい言葉をかけられ、ハンジさんの友人である意味を理解した。髪を切る道具をそろえるとのことで少しの間待っていると、あわただしく走り回る足音が聞こえてきた。
ハンジさんとの会話の中で二日間寝ていないと言っていたが、大丈夫なのだろうか。今からでも断って睡眠を取っていただくべきかもしれない。
おまたせと言いながら再び手を掴まれたところで、今考えていたことを言ってみた。
すると、「ハンジの頼みごとはやり通さないとうるさいから。それにあいつ、怒ったら誰よりも怖いんだよ、知ってた?」などと少々茶化す返事を返される。
どう反応すれば良いか困っていると、そのまま風呂場へと誘導され、中央に設置された椅子へ腰掛けるよう肩を叩かれた。
大きな布を身体にかけられ、頭上より唸る声が聞こえてくる。

「んー、髪型どうしようか。ここまでサイドを短く切ってるから、ショートにした方がいいかな、でももったいないし、難しいな」

「あの、こだわりはないので」

「なら、短く切っても大丈夫?」

「はい」

「ん、分かった。じゃあ切らせてもらうよ」

美形さんの手付きは丁寧かつ優しかった。櫛で梳く時も、切る時も、撫でられている感覚に気持ち良くなり、眠気が襲ってくる。
続いていた耳鳴りが遠くに聞こえ始めた途端、脇腹を突かれ身体をびくつかせてしまった。

「脇腹に刺激が走ると目が覚めるでしょ。ごめんね、眠いところ悪いんだけど、頭が揺れると危ないから頑張って」

「すみません!気持ち良くて、つい」

「正直なところ私も眠くて眠くて。終わったら一緒にお昼寝しようか。ハンジには余裕を持って二時間って言っておいたしね」

ふふ!と明るく笑う美形さんの声に申し訳なく背中を丸めてしまうと、またも脇腹を突かれた。
数十分、眠気と戦いながら頭が揺れぬよう耐え、髪の切りそろえが終わった。
頭を触ると、今まで経験したことがないほど髪が短くなっており心臓が高鳴りだしてしまう。嫌なものを切り落としてもらえたような、そんな新鮮な気持ちにさせられた。

「すごく短い、ありがとうございます」

「さりげなく私の髪型とおそろいだったりするんだけどね」

「おそろい……」

「え、嫌だった!?ほら、冗談冗談!」

「ええ!?嫌だなんて思ってません!」

顔に布を押しあてたまま笑うと、美形さんも笑ってくれた。
髪を切っただけでここまで気分が切り替わるとは思ってもいなかった。ハンジさんにも美形さんにも感謝しなければならない。
この明るい気持ちを保ち続け、リヴァイにきちんと『ありがとう』と『ごめんなさい』を言わなければ。

「さて、じゃあそのまま風呂に入ってね」

「え?」

「髪を切った後は気持ち悪いでしょ。それに数日風呂に入ってなさそうだし、石鹸はそのへんのを勝手に使ってくれていいから。はい、ごゆっくり」

風呂と言われ顔を思いきりさらけ出したが、美形さんはさっさと出て行ってしまった。
そう言えばここ五日ほど風呂には入っていない。それもリヴァイの機嫌を損ねる原因の一つだったのかもしれないと今更ながら勘付いた。まあ、拘束具をつけられていたし、恐ろしいほどの空腹で、それどころではなかったのだが。
言葉通り、風呂を借りることにした。
時間をかけて身体と頭を洗い、風呂を出たすぐそこに置かれていた布で身体を拭かせてもらった。
綺麗にした後だと、今まで着ていた服から強烈な異臭を感じたが、これは仕方ない。リヴァイの部屋へ戻り次第、下着と服を着替えよう。
異臭のする衣服を着用し、再び布で顔を隠しては美形さんのいるであろう部屋行くと、誰もいなかった。どこへ行ったのだろうか。何より、私はここへ居ていいのだろうか。
失礼のないようお礼のメモを残し一秒でも早く部屋を去るべきか、長居してきちんと礼を述べてから去るべきか、困った。
どうしよう、どうしよう、と一人悩んでいると、扉が開き美形さんの声が聞こえた。

「ごめんね!少し手間取っちゃって。一人だと不安になったんじゃない?」

「だ、大丈夫です……あれ、なんだか、いい香りがする」

「うん、簡単な料理だけど食べない?コーンのスープ」

香ばしい香りがする中で、またも手を引かれ、ソファーまで誘導された。
昨夜に焼菓子を食べたので空腹感が和らいでいたが、この食欲をそそる香りは一気に空腹感を呼び戻されてしまう。
「私は後ろのベッドにいるから、顔は見えないよ。安心して食べてね」と、どこまでも気遣う言葉をくれる美形さん。
ゆっくりと顔を隠していた布を下ろし、ソファー前のテーブルを見た。そこにはコーンの浮かぶスープと、スープ皿の端にパンが一つ置かれていた。
美形さんが用意してくれた食事、気付けばパンに手を伸ばしており、コーンのスープを味わいながら、残さず食べた。
美味しかった、とても美味しかった。身体があたたかくなってくる。食事とは、なんてありがたいのだろう。
そこで、リヴァイに与えられた食事を拒否し、口に詰め込まれたパンを吐き出していた自分を思い出し、再び耳鳴りが聞こえ始めた。
……素直に食べていれば、こんなことにもならなかったのかもしれない。自分のことしか考えず最低な行為をしていたのか、私は。

「おーい、どうしたの背中を丸めて。あ、髪が濡れてるね、乾かさないと」

「あの、スープとパンご馳走様です」

「いえいえ。そうだ、髪を切りながら思っていたんだけど、とても綺麗な黒髪だね」

「そうですか?」

「うん、本当に綺麗。けどね、あまり沈んで暗い考えばかりしていると髪が傷んでくるよ、がさがさになる!」

「え!」

「ふふ!だから、笑顔ね。笑顔を忘れないで」

後ろから肩に手を置かれた。ぽんぽんと、大丈夫だよと言葉が聞こえてくるようで。
そこで扉がノックされ、返事を待たずにハンジさんが顔をのぞかせる。
昼寝をする時間は無かったね、そう美形さんはつぶやき、残念だと言いながら私を扉まで送りだしてくれた。

「うわあ、!すっきりしたね!似合ってる」

「思いきり切らせてもらったよ。あと髪型、私とおそろいなんだ」

「言われみれば……まあ、今回は本当に感謝するよ!ありがとう、ナナバ」

美形さんに深く頭を下げ、部屋をあとにした。きちんと髪を乾かすよう指示を受け、こちらも深くうなずいておいた。ああ、とても有意義な二時間であった。
美形さんは遠征の任務が多い為、兵舎へ戻ってくる機会が少ないそうだ。今回はラッキーだったとハンジさんは手を合わせる。
リヴァイの部屋まで送ってもらい、ハンジさんは仕事へと戻って行った。私はさっそく着替えを済ませた。そして髪を乾かす。
窓から見える日差しは西に傾きかけていた。リヴァイが帰ってくるまでに『ありがとう』と『ごめんなさい』の練習をしなければ。本人を前にして口ごもってしまわないように。

時間はあっという間に過ぎていく。
陽が沈むまでに誰もいない空間で、ありがとうとごめんさいを何度言っただろう。おかげで自信はついた。きちんと言える、大丈夫。
床には座らずソファーに腰掛け、リヴァイの帰りを待った。
リヴァイの帰りを待つなど、初めてのことかもしれない。変な感覚だ。
拳に汗を浮かばせながらじっとしていると、足音が聞こえ、扉の前で止まった。無意識にソファーから立ち上がる。
扉が開き姿を現したのは、案の定リヴァイであった。

「あの、リヴァイ」

「……お前、髪」

「あ、髪は、その」

「誰が短く切っていいと言った。ふざけるな、俺をどこまで怒らせれば気が済むんだ」

一歩、一歩、兵服のジャケットを脱ぎながらこちらへ歩み寄ってくる。
それにつれて私も一歩、一歩、後ろへ後退した。

「え、いや、これは、短くしないと横髪とのバランスが」

私を睨みつけながら脱いだ兵服を力任せにソファーへ投げつける。
どうして、そんな怖い顔をするのだ。

「そうか、俺のせいだと言いたいのか」

「違う!あの、それより昨日は」

「それより?お前、今日はいつになく喋るな。どうした、俺に意見したいのか」

背に壁が当たった。
真正面にいるリヴァイが、とても不機嫌な表情をこちらに向けてくる。
ついに足が震えだし、声も弱々しくなる始末だ。

「意見じゃないよ、話を聞い……ひぐ、くるしっ」

「うるせぇ、耳障りだクソが」

胸倉を掴み上げられ、床へ投げつけられる。その上へまたがってきたリヴァイは、また私の頬を打ってきた。
痛みなどなかった。ただこのとき、何かがプツンと切れた。










*NEXT*









-あとがき-
記憶、第6話!ご覧いただきまして、ありがとうございます!
リヴァイが暴力的で申し訳ありません……。私情のこととなると感情のコントロールができない、などとそんな妄想で書いております(おい
ヒロインの頬の腫れは、リスが口の中へいっぱい食べ物を詰め込んだときのような、そんな顔をイメージくだされば幸いです。笑
リヴァイも、ヒロインも、すれ違いばかりですよね。自分で書いておきながら畜生じれったい、そう思います。
今回はナナバさんに登場していただきました。絶対に登場させようと最初から決めていましたので、やっと解消できました……!
過去編の記憶も次のお話でラストとなります。
純血人生に繋がる最終話、じっくりと書き上げます。