純血人生 21





今朝は寝不足の身体よりも顔が重たい。
昨夜泣いた痕跡として、まぶたがこぼれ落ちそうなほどぱんぱんに腫れ上がり、鼻は鼻水を何度も拭き取ったせいで皮がぼろぼろとめくれ、リヴァイに泣きやめとつままれた頬は薄っすらと赤くなり、とにかく悲惨な顔面をさらす朝を迎えた。
リヴァイはそんな私の顔を見るなり、めずらしく表情を柔らかくし……というか噴き出しそうになるのをこらえた。
そこまで面白い顔になっているのか私は。
ペトラ達のことを考えると、たまらず感情が昂る今は、いくらでも涙が溢れてくる。ほら、また目頭が熱くなってきた。
昨日ペトラ達の死を聞かされた直後は涙などまったく溢れてこなかったが、一度泣き出せばこのありさまである。
ベッドに腰掛け頭をうな垂れさす私に、いつの間にか着替えを済ませたリヴァイはパンを二つ差し出してきた。

「昨日の今日で食欲は無いだろうが、少しでも腹に入れとけ」

「……うん、ありがとう」

「あと今日の予定だが、俺達はまもなくここを出てウォール・シーナへ向かう」

「それ、調査兵団が王都に召集されるって、昨日リヴァイが言ってた件だよね?」

「正確には、調査兵団の責任者を召集と、エレンの身柄を憲兵に引き渡す、この二つだがな」

「……ん、待って、エレンを引き渡すの?憲兵団に!?」

「そうだ。昨夜、憲兵があわてて見張りにきた理由は、それだ」

なるほど、そういうことか……って、エレンを憲兵団に引き渡すとは一体どういう流れでそうなったのだ。
兵士として前線へ出向き、巨人討伐へ加担するなら今まで通り調査兵団に在籍すればいいこと。逆に憲兵団は調査兵団と異なり、王都での仕事がメインになる。
巨人になれる力を重宝され憲兵団に優遇……いいや、違うだろう。もしそうならば幹部が古城へ出向くはずだ。昨夜、地下牢へ駆け下りていく憲兵団の兵士を見かけたが、どう見ても一般兵であった。
では、優遇されるわけでもなくエレンを引き渡す、ということは。まさか、地下牢へ監禁するつもりじゃ……。
エレンを、どうするつもりなのだ!?

「言っておくが、やすやすエレンを憲兵に引き渡すつもりは無い」

「え、ああ、何か作戦があるってこと?」

「ある。昨日言っただろう、憲兵にまぎれている巨人を捕らえると」

「あ、エレンの同期の……」

「それにな、エレンは調査兵団を自ら志願した。そんな奴を憲兵にやらねぇよ」

あいつは既に俺の部下だ、とリヴァイは言い切り、調査兵団のマントを手に取る。
マントへ大きく縫い付けられている自由の翼を見つめ、少々苦い表情を浮かべながらエンブレムを小突いた。
この雰囲気から、今しがた告げられた「作戦」がどれほど大がかりなものであるか、ふと背筋に寒気が走る。
とはいえ、リヴァイがここまで言うのなら、おそらくエレンが憲兵団へ行くことは無いだろう。
エレンはまだ子供だ。調査兵団に入団して間もない今、リヴァイ班の先輩達を含み、ほんの数ヶ月で辛い思いをたくさんしてきたに違いない。
昨日、地下牢にいたエレンも私に負けないほどに目を腫らしていた。一度、思いきり彼の心の内を聞いてあげたい。
――また、調査兵団の兵舎へ帰って来て欲しい。

「……で、リヴァイはどうして私服なの?兵服は?」

「今回、俺は付き添いだ」

「まさか、足のせい?」

「仕方ないだろう、今の俺は役に立たねぇ」

「そこまでひどいの?ねえ、本当に大丈夫なの?」

「大丈夫だ。それに、いざとなれば動けるよう立体機動装置は準備してある。エレンのことは心配するな」

そりゃあエレンも心配たけど、今はリヴァイの心配をしているのに。
ダメだ、これ以上問い詰めたらリヴァイの機嫌を悪くしてしまう予想がつく。本人が大丈夫と言っているのだから、その言葉を信じよう。
無理だけはしないでね、と腫れた目を見開き懇願すれば、リヴァイはまた噴き出しそうになるのをこらえた。真剣に言っているのに……。
顔をそむけながら立ち上がったリヴァイは、腕を通さずに上着を羽織り、調査兵団のマントを片手に持つ。
そのまま扉へ向かうのかと思いきや、こちらへ寄ってくるなり私の手を掴んでは小さな何かを手のひらへ落としてきた。
手のひらを見てみると、年季の入った金属製のカギが乗っていた。何のカギだろうか。

「今古城にいる兵士は全員がウォール・シーナへと向かう。ようするに、ここは無人となるわけだ」

「無人……あの、私はどうすれば」

「お前は兵舎から迎えが来る。それまで待機していろ」

「一人で?」

「そうだ、辛いかもしれんが、頼む」

リヴァイは無表情で言い放ち、嫌なら一緒に来るか、と冗談めいた態度で言葉を付け加えてきた。……兵士でもない私が一緒に行けるわけがない。
しかし、この古城で一人待機とは、なかなか寂しい展開である。
だからと言って、もし、一人にしないで!などとワガママを言ってみろ。それこそ迷惑極まりない展開を招いてしまうだろう。
ここは自分の感情より、今の現状を受け入れるべきだ。皆はもっと辛い様々な事項を抱えている。
寂しいなど、そのような甘ったれた感情は我慢である。

「分かった、待機しています」

「よし。このカギは一階の裏口に設置されている扉のカギだ。出たら閉めておけ」

「はい、ばっちり閉めておきます」

「……お前に敬語を使われたら気持ち悪い」

「気持ち悪いって、なによそれ!丁寧に返答しているだけでしょ!」

「うるせぇな、大声出すな。……まあ、これだけ元気なら大丈夫そうだな」

数秒間、無言で私の顔を見つめるなり、「それじゃあ行ってくる」といつも通りの言葉を告げ、部屋を出て行った。
大丈夫そうだな、なんて言っておきながら、心配だ、と言わんばかりの目つきを向けてくるとは。言葉と表情がまったく釣り合ってない。
その一分後に扉が開き、リヴァイが忘れ物をしたのかと視線を向けると、そこには兵服姿のエルヴィンがいた。
扉前で立ちつくすエルヴィンに駆け寄り、どうしたのかと声をかけるが、優しい笑顔を向けてくるだけであった。
しかしその顔は誰が見てもわかるほどに疲弊しており、私の心は一気に曇る。

「エルヴィン、今からウォール・シーナへ向かうんだよね?」

「ああ、リヴァイから聞いたのか」

「なんだか、倒れそうな表情してるように見えるけど、大丈夫なの?」

「こればかりはな、寝不足や様々なことが重なって……いや、待て。も相当すごい顔をしているじゃないか、大丈夫なのか?」

「私の顔はいいの。ね、エルヴィン、お願いだから極度な無理は避けてね。いつか本当に倒れちゃう」

「はは!結構しぶといぞ俺は。……ただ少しだけ元気をもらいに、へ会いに来たんだ」

「元気を?分かった、私は何をすればいい、肩もみ?」

「何もしなくていい。その声や、気持ちだけで」

あ、でも肩もみは兵舎へ帰還したら頼もうかな、などと冗談を交えながら頭を撫でてくるエルヴィンの手は冷たかった。
いつもはほんのりと温かい手をしているのに。まるで、心の温度が手に表れているようで。
咄嗟にエルヴィンの大きな手を掴み、両手で激しくこすった。手のひら、手の甲、指先、全てに熱を込めていく。
少しでも温かく、温かくなれ。

「急にどうした?」

「エルヴィンの手が冷たいから温めてるの」

「俺の手は冷たいか?」

「気づいてなかった?いつもはぬくぬくしてるのに、今日はすごく冷たいよ」

「……そうか、そんな些細なことには気づいてくれるのか」

「この手に何度も頭を撫でられて育ちましたから。はい、次は左手!」

「なるほどな。お、両手を温めてくれるのか。でもそろそろ時間だ」

「超特急でこする!ぬぁぁぁ!」

ものすごい速さで手をこする私に、エルヴィンは笑いながら「あと十秒だ、頑張れ」と声援をかけてきた。
おかげで温め終えた時にはエルヴィンの手よりも私の身体の方が温もっており……いいや、気のせいにしておこう。

はすごいな、本当に元気をもらったよ」

「そう?元気になってくれたのなら、良かった!」

「……らしいな。真面目な話、俺の妻に迎えたいところだが。どうだ?」

「待って、なんでそう話が飛ぶのさ。しかも、その冗談は前にも聞いた覚えがあるんだけど」

「あれだろ、俺が仕事仕事で寂しい思いをするだろうから嫌だ、と」

「うん、そうそう」

「あの返答で、俺がどれだけ落ち込んだか、少しでも考えたことはあるか?」

「……はい?」

「さて、話はここまでだ。仕事へ行ってくる」

「な、ちょっとエルヴィン」

「なあ、俺が行ってくると言っているんだ、返事は?」

「あ、はい、行ってらっしゃい……」

温まった手で再び頭を撫でられ、優しい笑顔のままエルヴィンは部屋を出て行く。
待ってくれ。今の会話は、どういう意味だ。まるで言い逃げじゃないか。
以前に私が返答した内容に、エルヴィンは落ち込んだ……?その言葉を、どうとらえればいいのか。
今までエルヴィンを家族のような温かい存在として見てきた。おそらくエルヴィンも同様の気持ちで接してくれているのだと勝手に思い込んでいたのだが。
もしかすると世間で良く言われている、昔はパパのお嫁さんになると言ってくれてたじゃないか!と成長に伴って冷たくなる娘の態度に葛藤する父親と同じような境遇なのだろうか。
年齢的には父というよりも、年の離れた兄かもしれないけれど。
あれやこれやと考えていると可笑しくなり、今度エルヴィンに会った時に聞けばいいか、と答えをまとめる。
エルヴィンがあのようなことをつぶやくなんて、身体も精神も相当疲労しているに違いない。
私に権力があるなら今すぐにでも休ませてあげたいところだ。まあ、そのようなことが出来るはずもなく……近いうちに必ず肩もみをしてあげよう。
しばらくすると古城の外が騒がしくなり、兵士達が列を成して出立する様子を窓からこっそりと見守った。
馬に騎乗している兵士の中にエルヴィン、リヴァイ、エレンの姿が見当たらないことから、おそらく馬車の中だと予想がつく。
少しでも早く調査兵団の皆が兵舎へ帰ってくるよう、昨日に引き続き祈りを繰り返した。

兵士達の姿が見えなくなったところで預けられたカギをポケットに仕舞い部屋の扉を開けてみる。
扉の先に広がる石造りの廊下は、いかにも「城」という風格を漂わせていた。
現在古城には私一人である為か、不気味なほどの静けさが身体へと突き刺さってくる。ここで変な物音一つでもしたら、私、気絶する自信があるぞ。
迎えが来るまで部屋にいるのも一つ、部屋を出て古城を探索するのも一つ、さあ、どうする。
とりあえず一度部屋へ戻りベッドの脇へと腰掛けたが、どうも落ち着いていられず数分後には部屋を後にした。
古城の中を歩き回り、様々なものを目にすることとなる。
過去に調査兵団の本部として使われていたというだけあり、年代を感じさせるような戦闘に関する備品の数々、それに加えて甲冑なども見つけた。
兵舎で言う執務室のような部屋には、ページをめくれば砕けてしまいそうなほどの古書や資料も多々残されてあり、無我夢中で探索をしてしまう。
その中で、立派な木製机の引き出しから手帳のようなものを見つけた。
恐る恐る開けてみると、それは日記であった。ところどころインクが薄れており読むのに苦労するページばかりであったが、なんとも生々しい内容であった。

あの男は未知の才能を持っていると気づかされた
空中を舞うなど、よく思いついたものである

明日は、ついに運命のときだ
巨人を殺せるか、否、殺せないか

私は決めた
アンヘル、君を信じる


手帳の最終ページには「ホルヘ」と名前が記述されていた。
これは、貴重な資料なのではないだろうか。
何故このような手帳を古城へ置きっぱなしに……それとも、誰かの意図で「ホルヘ」という人物の思いを大切に保管しているとも考えられる。
現在も過去も、調査兵団には物語があるなあ、と単純に感心してしまった。
手帳を元あった場所へ丁寧に戻し、リヴァイが使用していた部屋から雑巾を持ち出しては、ホコリのかぶった木製机を綺麗に磨き上げた。
今も調査兵団は命を張って皆が頑張っています、と心の中で語りかけながら手を動かす。
最後に、どうか皆をお守りくださいと結局は祈りとなってしまい、ホルヘさんへ申し訳ないことをしたと反省しながら部屋を出た。

一階へ下りると地下への扉が開かれており、太陽が出ている今は暗い階段が照らし出されていた。それでも数段先は闇となっており、ランプ無しでは下へ行けそうにない。
地下へ用事は無いが、ふとエレンのいた地下牢の中を見たくなり、小さなランプへ火を灯した。
昨夜と同様に石壁へ手をつきながら、一段、一段、下りて行く。
最下層へたどりつき、左側にある鉄格子の中をランプで照らした。案の定、そこにはベッドが一台ひっそりとたたずんでいるだけであった。
(……そりゃあ、エレンはいないよね)
鉄格子の扉が開けっぱなしになっていたので、中へと入り少々乱れていたシーツを整えてやる。
昨夜、エレンはこのベッドで、どれだけ悩んで、考えて、涙を流したのだろう。枕を指先で触れてみれば、少し湿っていた。
もっとそばにいてやりたかった、というのが私の正直な気持ちである。
あのような精神状態で……と、エレンの心配をしていれば、どこからか微かに足音が聞こえてきた。
タン、タン、タン、と規則正しい足音、これは間違いなく誰かが階段を下りて来ていると即座に理解する。今古城には無人のはずなのに、何故!?
今は考えるよりも隠れなければ。隠れ、隠れ……鉄格子で丸見えのどこに隠れるというのだ!
あわててランプの火を消し、視界に入ったベッドのシーツを頭からかぶった。
最下層へと到着したのか、一度足音が止まる。一体誰だ、無人の古城を狙って何かするつもりだろうか。

「……不自然なシーツが見えるけど、まさか、さん?」

その声にハッとする。
シーツから顔を出せば、ランプを片手に持ちながら、顔を引きつらせるナナバさんが鉄格子の前にいた。
これほど脱力したことは無いと思えるほどに、肩の力が抜け落ちてしまう。
「まったく、捜し回ったよ」と溜め息を吐きながら地下牢の中へ入ってくるなりシーツをはぎ取られ、それをきちんと畳み、外へと引っ張り出された。

「地下牢で何してたの?」

「あの、昨夜エレンがここにいたから、少し様子を見に」

「エレンは朝にウォール・シーナへと出立したはずでしょ」

「うん、分かってるんだけどね、なんとなくここへ来てしまって」

「……一人で寂しかった?」

「あ、全然!平気だったよ」

「もっと私が早く迎えに来るべきだったね、ごめん」

「ええ!?待って、謝罪する意味が分かりません!むしろ忙しいのに迎えに来てくれてありがとうだよ」

「そんなことないよ。本当にごめんね」

「やめてやめてナナバさん!ごめんは、受け取れません!」

「受け取れないって、もう、なにそれ」

急に笑い出すナナバさんに目が点となってしまう。というか、地下牢で会話をするなんて、何をしているのだ私達は。
そう考えていると、だらんと力なく垂れ下げていた手を握られた。
「さあ、兵舎へ帰ろうね」そう優しくささやかれ、握られた手を引かれる。
先ほど一人で下りてきた石造りの階段を、ナナバさんと共に一段、一段、上がって行く様は、おとぎ話に登場する王子と姫を連想させた。
王子と姫、か。
同時に、調査兵団の皆が大変な時に愉快な発想をしてしまう自分はいかがなものかと呆れた。
この脳内をリヴァイに知られたら、また噴き出されるに違いないだろう。

リヴァイに指定された扉から外へ出ると、目まいが起こりそうなほど太陽の光はまぶしかった。こんなにも外は明るかったのか。
私がしっかりと扉のカギを閉めている間にナナバさんは厩舎へと向かい、門前で待ち合わせをした。
門まで小走りで掛けていると、既に馬へ騎乗しているナナバさんの姿が見え、運動不足の身体に鞭を打ちスピードを加速させる。

「お待たせ!」

「走らなくていいのに。忘れ物は無い?」

差し出されたナナバさんの片手を掴み、何も持ってきてないから、と返事をする。その返答にうなずき、私を馬の上へと引き上げた。
腹を蹴られた馬は鳴き声を上げ、一気に古城から駆け出す。

兵舎へ帰還したのは、深夜に近い時刻であった。
馬も疲れていたのか昨日ほど勢いが無く、休憩を何度もはさみながらの帰路であった。
兵舎の中に設置されている厩舎へ馬を繋ぐナナバさんへ、せめてもの恩返しとして馬の世話をさせてくれと申し出ててみた。
ナナバさんは笑顔で「それじゃあ、お願いしようかな」と嬉しい返事をくれて、その場を後にする。
どうやら馬の世話をまかされたらしい。あわてて先日にエレンや子供達と隠れた倉庫へと走り、道具一式を持ち出す。
完璧な世話はできないが、日ごろ兵士達がしている様を見よう見真似で身体をブラッシングしてやり、食事と水をたくさん与えた。
腹を満たした馬は、ブルルル、そう首を振り出す。まるで「そろそろ寝るわ」と言われているようで、いつでも食事ができるよう餌を下へと置いてやった。ありがとう、お馬さん。
さて、私も軽く食事をとって今夜は寝るとしよう。これ以上寝不足になるわけにはいかない。

食堂へ行くと、奥の厨房にランプの明かりが点いていた。
足を進めると野菜のいい香りが充満しており、自分でも驚くほどの空腹に襲われる。
このような時間に一体誰だろうか。
こっそりと厨房をのぞいてみれば、そこにはナナバさんがおり、平たい鍋を片手で軽快に振っている姿に唖然としてしまう。

「ナナバさんが料理してる……」

「お!ちょうど良かった。呼びに行く手間が省けたよ。料理は私の趣味で。あ、女っぽいって言わないでね」

「いやいや、すごいや。手慣れてるのが一目で分かった」

「そう?褒められるとは思わなかったなあ。それより、一緒に夕飯食べようよ、二人分作ってるから」

「わ、本当に!?ありがとう、ナナバさん!」

「はい、じゃあ手伝ってね。この野菜をもう少し炒めてて。私はこっちでもう一品作るから」

そう言うなり振っていた鍋を火の上へ置き、バトンタッチである。
この鍋は重たいので片手で振るなど私には到底できない。ナナバさん、その細い身体のどこにあのような力を秘めていると言うのか。
(……両手なら、出来るかな?)
鍋を振るという技を一度してみたいと考え付いた私は片手では無く、両手で鍋の取っ手を持ち、力を込めて振り上げてみた。
すると、炒めていた野菜の半分が鍋の外へと散らばり、思わぬ事態に全身が固まってしまう。
(あああああ!やってしまった!)

「ナ、ナナ、ナナナナバさん……」

「ん、どうしたのって!あ、何してるの!」

「ごめんなさい!調子に乗って鍋を振り上げたら、散らばりました!」

「もう、奇想天外なことをしてくれるね!ふふ、おもしろいなあ。いいよいいよ、洗って水気を取ってからもう一度炒めればいい話さ」

散らばった野菜を二人で拾い集め、水で洗い、しっかりと水気を拭き取ってから再び鍋へ投入した。
その間、謝罪を貫き通していると、「それ以上の謝罪は受け取れません」と私が古城で言ったセリフを似せて言い返された。
怒らずに笑い飛ばしてくれるナナバさんはとても優しいと改めて実感する。
(……というか、何をしているのだ私は)
そのような迷惑極まりない騒動もありながらも何とか料理は完成し、テーブルへと並べられた。
向かい合うように着席し、次から次へと溢れてくる申し訳ない気持ちを静めるため、グラスに注がれていた水を飲み干す。

「ほら、温かいうちに食べよう」

「ごめんね、ナナバさん。迷惑かけて」

「また謝ってる。はい、食べるよ」

「だって……いただきます」

野菜炒めを口の中へ入れると、ふんわり香ばしい味が広がった。
味付けは全てナナバさんがしたのだが、美味しい!目を見開き、料理を噛みながら感激のジェスチャーを送るとナナバさんは噴き出した。
飲み込んでから喋ればいいでしょ、と一言付け加えて。

「本当にもう、さんは。あ、そうだ、馬の世話をしてくれてありがとう」

「とんでもない!いっぱい餌を食べて、もう今は眠ってるんじゃないかな」

「うん。あいつには明後日もたくさん走ってもらわないといけないからね」

ナナバさんは炒めた野菜を口へと運びながら、私の馬は表情がとても可愛らしくて、などと馬自慢を始めた。
兵士は皆が皆、自分の愛馬を大切にしている。
以前にリヴァイから聞かされた話なのだが、壁外へ進出する調査兵団の兵士にとって馬は信頼し合う相方でなくてはならないらしい。
あのような戦場ともいえる壁外を駆け抜けるのだ、それは命を預けるのと同じことである。
ナナバさんが馬を大切にしている気持ちが良く分かる気がする。

「馬の目って可愛いよね、ぱちぱちしてて、まつ毛もあって」

「私の馬は左目のまつ毛だけで四十三本あるよ」

「え、数えたの?」

「うん」

「馬のまつ毛を数えるなんて、私自分のまつ毛も数えたことないのに」

「しかもね、あいつは少し垂れ目がちでさ、鳴き声もしっとりしてて、全てが可愛いんだ」

まるで、私の彼女は世界一可愛いんだ、とでも言い出しそうな雰囲気で、馬への愛を聞かされる始末である。
ナナバさんは馬を溺愛しているらしい。ここまでくると素晴らしいと言えるだろう。
馬と言えばネス班長も相当な馬好きであると有名だ。

「ネス班長も馬について詳しいよね」

「そうだね、ネス班長……惜しい人を失った」

「失った?」

「あれ、もしかして聞いてない?」

そこでネス班長は昨日の壁外調査で死亡したという報告を受けた。
――ネス班長が、死亡?
咄嗟に頭へ浮かんだのは、先日兵舎に侵入したガルとモコの存在である。

「今回の壁外調査は特殊な作戦があったとはいえ、犠牲になった者の数が多すぎたね」

「……うん、本当に」

「ごめん。こんなこと、食事時にする話じゃなかった」

「いやいや!いずれは知ることだったし、うん、報告してくれてありがとう」

あまりの衝撃に口数が減ってしまい、次第に無言の間となってしまう。
途中、料理の味が分からなくなってしまったが、ナナバさんが作ってくれた野菜炒めと温かいスープだ、しっかりと味わって食べた。
食事が終わり片付けようと立ち上がれば、何故か食器を取り上げられてしまう。
「私がやるから座ってて」と言いながら、ナナバさんは厨房へと入って行った。
あわてて後を追いかけ、洗い終えた食器を手ぬぐいで拭いていく。

「座ってていいのに」

「ナナバさん一人にやらせるわけにはいかないよ」

「ごめんね、私がネス班長の報告をしたせいで、暗い雰囲気にしてしまって」

「ネス班長の話題を出したのは私だもん、こっちがごめんなさいだよ」

「……今日は二人して謝ってばっかりだ、私達」

「うん、謝ってばっかりだね、ごめん」

「また謝った!」

「あ、笑わないで!」

食器を元の場所へと戻し、汚れた水を流し終え、ランプの火を消した。
一気に暗くなった食堂を出て、部屋へと向かい階段を上っていく。
階段や廊下も所々にランプはついているが、ほぼ暗闇であり、会話の声はおのずと小声になってしまう。

「ナナバさんの料理、本当に美味しかったなあ」

「それは良かった……あの、さん。今夜は、一人で眠れる?」

「え?うん、大丈夫」

「そっか、ならいいんだけど。そうだ、部屋まで送るよ」

「いいよいいよ、階段を上ればすぐそこだし」

「いいから、送らせて」

ナナバさんの優しさは計り知れない。男性からこのような扱いをされると、嬉しい気持ちになるのは当然だ。
それに加えて容姿端麗であり、極めつけに料理上手とは。以前など器用な指先で子供達に馬を折ってやり懐かれていた。
どう考えても、すさまじいほどに素敵な男性である。
あまりの完ぺき具合に感心していると、あっという間に部屋へ到着した。

「ナナバさん、今日は本当にありがとう」

「こちらこそ。ゆっくり寝てね」

「うん、おやすみなさい」

「おやすみ」

階段を下りて行くナナバさんに手を振り、見えなくなったところで部屋へ入った。
部屋の中は暗闇であり、小さなランプに火を灯す。休憩しようとしたが、その足で風呂へ向かうことにした。
一度座ればそのまま眠気が襲ってきそうなので、先に風呂を済ませてしまおう。
髪と身体、朝より幾分か軽くなった顔を丁寧に洗い、二日分の汚れを落とした。
風呂を出て、ついでに歯も磨いてしまい、髪を拭きながらリヴァイのベッドへと腰掛ける。
(……ああ、静かだなあ)
静かな空間は、とてつもなく様々なことを考える時間となってしまうのを私は知っている。
ほら、既にネス班長の姿が思い浮かんでいるじゃないか。横にはペトラもいる、オルオもいる、エルドさん、グンタさん……皆いる。つい先日まで元気に笑っていた『皆』が。
なんだろう、このどうにもならない最悪の現実は。
リヴァイには死を受け入れろと言われたが、やはり時間がかかりそうだ。どうしても、心のどこかで「また会える」と考えてしまう。
会って、会話をしたい。もう一生会えないなんて悲しすぎるだろう。
皆のことを考えると、鼻の奥に痛みが走り目頭が熱くなり始めた。また私は泣いてしまうらしい。駄目だ、さっさと寝てしまおう。
髪を乾かさないまま横になり、無理矢理まぶたを閉じる。それでも、涙は溢れ、閉じたまぶたの隙間から流れ落ちた。
先ほどナナバさんに一人で眠れるかと問われ、大丈夫だと返事をしたが、どうやらウソをついてしまったらしい。
眠気より辛さが大きく膨れ上がり、眠れそうにない。

翌朝、昨日の朝と同様に目がぱんぱんに腫れ上がっていた。ひどい顔面である。
それに加えて髪も乾かさずに寝たせいで寝ぐせがすさまじい。とりあえず寝ぐせを誤魔化す為、一つに束ねて左肩へ垂らすように髪型をセットしてみる。
しかし、髪を束ねると顔が余計に目立ってしまい残念なほどに救いようがない。
鏡の前でうんざりしていると、兵舎の鐘が鳴り響き、あわてて準備を済ませた。仕事開始の合図である。
山のように積み上げられている洗濯物を片づけるべく、洗っては干し、洗っては干しの動作を繰り返した。
どんなに現実が辛かろうと、洗濯物はたまっていくのだ。ジッとなどしていられない。
どうすればここまで泥まみれになるのかと思えるほどのシャツを揉み洗いしていた時。
ふいに背後から首を何かになぞられ、素っ頓狂な声を上げてしまう。
あわてて後ろを振り向けば、そこにはナナバさんがおり、不機嫌な表情を浮かばせていた。

「ナナバさん!今、私の首」

さん、この髪型はダメだ……って、その目、どうしたの!?腫れ上がってるじゃないか!」

「あ、いや、ちょっと寝不足で」

昨夜泣いたでしょ、と痛いところ突かれながら、せっかく束ねた髪をほどかれ、手櫛で梳いてくる。
どうしてこの髪型がダメなのかを問い詰めると、もっともな返答を返された。

「ここは調査兵団の兵舎だよ、もっと自覚しないと」

「兵舎なのは知ってるよ!だからって私の髪型と何の関係があるの?」

「調査兵団の兵士は巨人狩りのスペシャリストがそろってる。念のために聞いておくけど、さんは巨人の弱点を知っているよね?」

「確か、首の後ろ側って聞いたことはあるけど」

「うなじね。兵士は職業柄、人間であろうとうなじへ目がいってしまうんだ」

兵舎の中であまりうなじを出さない方がいい、と少々低い声で忠告され、ナナバさんはその場を離れて行った。
そうは言われても寝ぐせが。まあ、この顔面に比べれば寝ぐせぐらいどうってことないけれど。
幸い、今日はウォール・シーナでの作戦もあり、兵舎の中に兵士の姿は少なかった。
でも、うなじって髪を短くしたら丸見えなんじゃ……。いいや、今の忠告はナナバさんの優しさだと考えよう。
寝ぐせのついた髪をなびかせながら、洗濯の続きを開始した。

夜、洗濯以外の仕事もこなしていると、気づけば日付の変わりそうな時刻になっており、腹が情けなく鳴り出す。
私は時間の使い方が下手だ。もっと効率良く出来ないものか。
何か食べてから部屋へ戻ろうと、食堂へ足を進めれば、扉を開けたすぐそこにナナバさんがいた。
イスへ腰かけ、書類を片手に持ち、呼吸に合わせ肩が規則正しく上下に動いている。
どうして食堂で寝ているのだ。部屋で身体を休めればいいものを。
気持ちよさそうに寝ているところを起こすのは申し訳ないが、そうも言ってられない。このような場所で一夜を過ごすなど、下手をすれば風邪を引いてしまう。
軽く、軽く、ナナバさんの肩を揺すってみた。

「ナナバさん、ナナバさーん。起きて」

「……ん、あれ」

「ここ食堂だから、部屋で寝た方がいいよ。身体が冷えちゃう」

「ごめん、寝てた。待ってたよ、さん」

「待ってた、って私を?」

「他に誰がいるの。夕飯まだだよね、作っておいた」

「……へ、うそ」

「昨日美味しいって言ってくれたから、もっと食べてもらいたくて。すぐ持ってくるから、座って待ってて」

持っていた書類を手渡され、厨房へと駆けて行ってしまった。
ナナバさんも疲れているだろうに、私へ気遣いをしてくれるなんて。これは嬉しいなんてものじゃない。
なんだろうか、この溢れてくる温かい気持ちは。
異性だ、恋だ、憧れだ、そのようなものではなく、人間として私はナナバさんが大好きなようだ。
辛い現実の中でも嬉しいことは降ってくる。本当に人生は分からないもので。
ゆるむ顔をうつむかせ、視界に入った書類を見ると、何やら大まかな地図と作戦内容が書き込まれてあった。
表題として、『ウォール・ローゼの南区にて、新兵の調査を行う』と記載されており、何のことか首をかしげるしかない。

「お待たせ!野菜がたくさん入ったスープだよ」

「うわあ、美味しそう……!もう、今度何かお礼を」

「そんなのいらないから。あと、今朝は突然髪をほどいて、ごめん」

「何も気にしてないよ。むしろ今度から気をつけるね」

「作戦室から髪を束ねているさんの姿が見えて。気づけば部屋を飛び出しててさ」

「そうだったの?」

「なんていうか、誰にもうなじを見せたくないって、ふと考えてしまって」

「ナナバさんは私のうなじを守ってくれたんだね」

「まあ、そういうことにしておいてくれる?」

「もちろん!では、いただきます!」

どのような味付けか期待をしながら一口含むと、濃厚で優しい味が口の中へいっぱいに広がった。
やはりナナバさんの手料理は美味しい!
正面の席へ腰掛けるナナバさんへ、昨日に引き続きジェスチャーで「美味しい!」と感想を伝えると、思いきり笑われた。

「だから、飲み込んでから喋ればいいのに」

「美味しい、本当に美味しい!すごいね、ナナバさん実は料理人目指してた?」

「料理はただの趣味だよ、昨日も言ったでしょ。ただ、食材を活かすのが楽しくて、昔いろいろ研究してたんだ」

「へえ、すごいなあ。二日続けてこんなに美味しい料理を……いいのかな、私」

「いいの。さんは毎日頑張ってるからね。あ、それと一つ報告」

報告、の言葉に心臓が跳びはねた。
また、誰かに不幸があったのかと咄嗟に考えてしまう。
しかし今回は違った。なんと、エレンを憲兵団に引き渡す件が取り消された、というものであった。

「本当に!?」

「ああ、事実だよ。とはいえ、ストヘス区で大きな被害を巻き起こしてしまったようだけどね」

「そっか……」

「さあ、食べて食べて」

エレンのことだけを考えると私としては喜ばしいことだが、そう喜んでもいられないようだ。
ナナバさんの言う「大きな被害」は、おそらく死者も出ているということだろう。
以前、エルヴィンからとある言葉を教わったことがある。
「何かを得るには、何かを犠牲にしなくてはならない」まさにその言葉がぴったりと合いそうな境遇であるように思えた。
起こってしまったことを思い悩んでいても、らちが明かない。とりあえず、エレンは兵舎へ帰ってくる、その事実を大切に受け止めよう。
それに今はナナバさんの手料理をしっかりと味わって食べたい。

「ナナバさん、もう目まいがするほどに美味しい」

「それ褒めすぎだよ」

「事実だもん。優しい味がする、それに温かい」

「温かいのはスープが熱いからでしょ」

「違う、熱さじゃなくて、ナナバさんの心の温かさも入ってる気がする」

「私の……?」

「って、うわ、今のセリフは恥ずかしいね、忘れて忘れて」

何を口走っているのか、ああ、顔が熱い。
とはいえ、普段言わないようなセリフを口走ってしまうほどに、やはりナナバさんは素敵な人物だということだ。
火照った顔でも何でもいい、ナナバさんなら笑って受け止めてくれるだろう。真正面から、「ありがとう」と素直な気持ちを笑顔で告げてみた。
笑われるな、と覚悟したが、何故か目を見開き私を見据えてきた。仕舞いには口元に手を当て、顔を横にそむけてしまう。
(あれ……無視された!?)
私の笑顔が気持ち悪かったのだろうか、まさか、不快な気持ちにさせてしまった!?感謝の気持ちを込めたつもりなのだが。
持っていたスプーンを落としそうになるのを耐え、恐る恐る声をかけてみる。

「ナナバさん?あの、何か気に触った?」

「違う違う!えっと、こんな手料理で良ければいつでも作るよ」

「ありがとう……ね、どうしてこっち向いてくれないの?」

「ごめん、気にしないで」

いやいや、気にするに決まっているだろう!無茶を言わないで欲しい。
顔を隠すように斜めを向いてしまい、表情が全く見えない。そこまであからさまに視線をそらさなくてもいいじゃないか。
当然のことながら冷たい態度を取られると、悲しくなる。
これ以上話を持ちかけても雰囲気を悪くするだけかもしれないと考え、口を閉ざした。
すると私の異変に気づいたのか、ナナバさんはイスを後ろに倒しながら勢いよく立ち上がり、「どうして泣きそうな顔するの!」と声を上げてくるもので驚いてしまう。

「なに、え、泣きそうな顔?」

「自分で気づいてないの?……でも、ごめんね。私の態度が原因だろ」

「こちらこそ、ごめんなさい。気づかないうちに、ナナバさんへ不快な思いをさせてしまったようで」

「だから違うんだって!」

「よく、リヴァイにも言われるの。お前は鈍臭い上に鈍感だ!って」

「リヴァイ、か。そうだなあ、鈍感なのは少し当たってるかな」

「ええ!?そんなハッキリと……」

「ほら、喋るのもいいけど冷めないうちに食べて」

食器を指差され、あわてて食べる動作を再開する。
スープをすくったスプーンを口へ運んでいると、ナナバさんは頬杖をつき、口元は笑みを浮かべながら細めた目でこちらを見てきた。
なんだか、食べづらい。そのような綺麗な笑顔を向けられると、緊張してしまう。
次は私が視線をそらす番であった。顔を少々うつむかせ、食器の中で湯気を立てているスープをひたすら見つめるはめに。
妙な気分でスープを味わっているとノドをつまらせ咳き込んでしまい、勢いで飛び出したスープが口の端をつたい垂れ落ちた。
胸を叩いて咳を止めようとすれば、ナナバさんがこちらの席へ駆けつけ背中をさすってくれる。
「ゆっくり食べればいいのに」と言葉をかけられ、「あなたのせいです!」そう心中で叫んだのは言うまでもない。それでも、優しく力強いナナバさんの手はとても心地良かった。
咳き込みながらも、やっとのことで食べ終えることが出来たが、最後は味など分からなかった気がする。

「……あの、ごちそうさまでした」

「うん。咳き込みながら全部食べてくれてありがとう」

「もう、言わないでよ」

「はいはい。さて、片付けて部屋へ戻ろうか」

席を立ち上がったところで昨日の繰り返しであるように食器を奪い上げられそうになったが、寸前のところで交わした。
二日続けてこの手にはのらない。それに片付けぐらいは自分でしないとバチが当たるだろう。
そう意志を込めながら厨房へ足を進めていると、「上手いこと交わしたね、いい反射神経してるよ!」と何故か喜びを露わにするナナバさんの声が飛んできた。なんというか、やはり根っからの兵士であると思い知らされる。
反射神経の話から他愛ない会話を繰り広げつつ、食器と鍋を片付けた。
汚れた水を流し、全て元の場所へ戻し終えたところで、ランプの火を消し食堂を後にする。

「もう深夜だね、今日もあっという間だったなあ。ナナバさん明日の予定は?」

「明日は早朝に兵舎を出て、新兵とウォール・ローゼの南区へ行くんだ」

そう言いながら作戦内容が書かれてある書類を手の甲で小突いた。
なるほど、明日の仕事に関する書類だったのか……って、今、早朝に兵舎を出ると聞こえたが。

「それなら早く寝ないと!寝不足になっちゃう」

「ああ、少しぐらい平気だよ」

「何言ってるの!寝不足をなめないで!ほら、早く早く」

ゆっくりと階段を上るナナバさんの背後へ回り、背中を押してやった。
ナナバさんは優しすぎる。
私などに気遣って料理を作ってくれた時間、食べる間ずっと一緒にいてくれた時間、今こうして階段を上っている時間、全て睡眠時間を削っての行動だろう。
ここまで優しいと、嬉しい半面、申し訳のない気持ちで胸が痛くなる。
「ありがとうございます」と「ごめんなさい」が頭の中でダンスしているかのようで。

「……それより、さん」

「あ、はい」

「今夜も、その」

「ん?」

「……一人で眠れそう?」

「そりゃあもう、ナナバさんお手製の温かいスープを飲んだし、ぐっすり眠れそうだよ」

その言葉を聞くなり足を止め、背後から背中を押していた私へと向き合う。
突然の行動に、どうしたの、と声をかけると、言いにくそうに表情を歪めながら「私は一人で眠れそうにない」そうつぶやいてきた。
(一人で眠れそうに、ない?)

「それって、どういう……」

「あ、ああ、ごめん!なんでもないよ、それじゃあ、おやすみ!」

「え、ナナバさん!?待って、よ……って、なんて足の速い!」

恐ろしいほどの速さで階段を駆け上がって行ってしまった。まるで私から逃げるように。
さて、どうしたものか。ナナバさんは一人で眠れそうにない、らしい。
このまま放って自分の部屋へ戻るか、ナナバさんの部屋へ様子を見に行くか、どちらを選ぶべきだろう。……既に、答えは出ているが。
ただ、深夜に男性の部屋へ訪問するなど、もしリヴァイに見つかれば何と言われるか。しかし、私の為に料理を作り待っていてくれた優しいナナバさんを放っておけるわけもない。
何より、あのような態度を取られては、部屋へ戻ったところで気にかかってしまい寝るに寝れないじゃないか。
確かナナバさんの部屋は、ここから二つ上の階であったはずだ。小走りで階段を駆け上がり、上りきった先に続く廊下へ出ると、壁に背を預け片手で頭を抱えるナナバさんを見つけた。
一歩一歩近付くと足音で気づいたのか、ナナバさんは顔を上げて遠慮がちにこちらを見てくる。

「……さん、どうして来たの」

「あんなこと言われたら放っておけないよ」

「そっか、そうだよね、私はずるいなあ」

「ナナバさん、一人で眠れそうにないってことは、一人が寂しいの?」

「その、なんていうか……」

首をかしげる私を前にして何度か言葉をにごしてきたが、数秒後には決意を決めたかのような力強い表情が視界に飛び込んでくる。
そして「今夜だけ、私の部屋に来ない?いや、言い方が違うな。部屋へ、来て欲しい」と正面から告げられた。
ナナバさんからの大胆な誘いに対して、嫌とは思わなかった。となれば、答えは一つである。

「うん、行く」

「ええ!?いいの!?」

「それでナナバさんが睡眠を取れるなら、いくらでもそばにいるよ」

「あのね、嬉しいけど、もう少し警戒心を持ちなよ!」

「そんな!話を持ちかけたのはナナバさんでしょ!?」

何故か言い合いとなってしまい、挙句の果てには「男は豹変するから気をつけないと!」と説教される始末である。
そこに窓ガラスが少し揺れる風が吹きつけ、ふと静かな廊下で叫び合っていたことに気づき、お互いの手で口を塞いだ。
一体私達は何をしているのか、結局は二人して笑いをこらえ、そのままナナバさんの部屋へと足を踏み入れることとなった。
ランプに火が灯され、部屋の中が露わとなる。
それはそれは、綺麗に片付いている部屋であった。リヴァイほどではないが、整理整頓が行き届いている。

「はい、さん」

「なにこの花瓶と刃物と……ヒモ?」

「身の危険を感じたら、これで私を殴るなり刺すなり絞めてくれればいいから」

「待って、そんなことできるわけないでしょ!」

「もちろん気をつけるけど、一応ね」

女性を部屋へ入れるなんて初めてだから何をしたらいいのか、そう言葉を付け加え壁に手をついては溜め息を吐いた。
そんなナナバさんに、風呂へ入るよう声をかけてみる。

「え、風呂?」

「私は明日の朝に自分の部屋で入るから。ナナバさん入ってきて」

「それなら、私も風呂はいいよ」

「でも明日は早朝に出発でしょ?」

「風呂ぐらい一日二日入らなくても平気だから。睡眠時間を優先して今夜は寝よう」

「ナナバさんがそれでいいな、ら……!」

突然兵服を脱ぎ始めるナナバさんからあわてて目をそらし、床に視線を落とした。
見慣れているリヴァイならともかく、ナナバさんの下着姿を見るわけにはいかないだろう。
しばらく無言でうつむいていると、こちらへ近付いて来るなり柔らかい手触りの服を手渡された。「そのままじゃ寝づらいでしょ」と言いながら。
ようするに、着替えろということらしい。

「この服、借りていいの?」

「もちろん。私のだからさんには大きいかもしれないけど」

「とんでもない!ありがとう」

何も言わずとも着替える姿を見ないよう後ろを向いてくれる姿勢は紳士的であった。
さすがだなあ、と感心しながらもさっさと着替えを済ませ声をかけると、ベッドの脇へ腰掛けたナナバさんがこちらへ手招きをしてくる。

「さあ、着替えたことだし、寝ようか」

「そうだね。早く寝ないとね」

「私の部屋ってソファーも何無いから、一緒にベッドで寝ることになるけど……大丈夫?」

「ああ、平気平気。なんともないよ」

「だからさ、もう少し危機感を持ってほしいんだけど」

「だってベッド一台しかないなら仕方ないじゃない」

「……あはは、まあいいか」

隙間なく壁につけて置かれているベッドは、リヴァイのベッドとほぼ同じサイズであった。二人で寝るには少し窮屈な一人用のベッドだ。
ベッドを見つめていると壁側で寝るよう誘導され、私が先にベッドの中へと入り、続いてナナバさんも入ってきた。
「ベッドから落ちたら大変だからね」と、壁側へ誘導された意味を知り、あまりの優しさに嬉しい悲鳴を上げそうになるのを抑える。
更には、「狭くない?」などとナナバさんは自分の身体を端へ寄せ、私の寝るスペースを大きく開けてくれる素晴らしい気遣い。
同じ部屋で生活をしている誰かさんと対照的な扱いをされ泣きそうになった。真ん中で堂々と寝るリヴァイに、この心遣いを見習って欲しいところだ。
しかし、ナナバさんに狭い思いをさせては申し訳ないので、寝巻を掴みこちらへ引っ張る。

「私は狭いの慣れてるから、気にしないで」

「わ、近いよ、さん」

「ああ、ごめんごめん!」

「……なんだか不思議だな。何年も前からさんの存在を知っていたのに、今になって一緒のベッドに入っているなんて」

「うん、以前は顔を見れば挨拶を交わす程度だったよね」

「もっと早く話しかければ良かったなあ。今じゃ後悔してるよ」

そう言いながら、髪へ触れてきた。
最初は毛先を指へ巻きつけるように遊んでいたが、次第に顔へかかる髪を耳の後ろへと流す。
その仕草がくすぐったくて、心地よくて、目を閉じた。
ナナバさんの手は骨ばっているが、内面がそのまま表れているようで、手付きはとても優しい。
意識がふわりと軽くなり始めたとき、名前を呼ばれたので目を開くと、こちらをうっとりした表情で見つめてくるナナバさんと目が合い、一気に眠気が吹っ飛んでしまう。
ほんのりとランプに照らされるナナバさんの顔は、それはもう、驚くほどに儚く綺麗であった。
途端、顔が火照ってしまい布団を頭までかぶる。

「……ん、どうしたの?」

「ナナバさんが、綺麗すぎて困る!そんな表情で見られたら照れるよ、今ものすごく照れてるからそっとしといて!」

「うそ、照れてるの?照れてる顔見せて見せて」

「うわあああ!やめて!」

布団を無理矢理めくられ、アゴを下から持ち上げるように火照った顔を上へと向かされてしまい、思わず目をつむった。
赤く染まった頬でもつままれるか、そう覚悟をしたが、「……もう寝よう。おやすみ」と無言の間を挟み、少々低い声で告げられる。
アゴから手が離れたので、うっすら目を開けてみると、ナナバさんはまぶたを閉じていた。
そりゃそうだ、これ以上会話を続けると身体に毒である。明日の仕事に響いては、一緒に寝ている意味がない。
(……しかし、寝顔まで綺麗だなあ)
しばらくナナバさんの寝顔を見つめていると、気づけば眠気に襲われており、簡単に意識を手放すこととなる。

次に目を覚ました時には、既に兵服へ着替えたナナバさんがベッドの脇に腰掛け、こちらを見下ろしていた。
あわてて身体を起こすと、「起きなくていいから」と肩を掴まれ、再びベッドへ寝かせ付けられてしまう。
窓の外は明るくなり始めており、早朝であることを理解した。

「……もう出発?」

「うん、あと数分で部屋を出ないと」

「数分!?なら私も起きるよ!ゆっくりしてられない」

「いいのいいの。この部屋使ってくれていいから、ゆっくり寝てて」

「そんな、とんでもない。自分の部屋へ帰って寝直せばいい話だし」

「部屋へ帰って冷え切ったベッドに入るの?寒くて眠れないかもしれないよ?そう考えると辛くなるでしょ」

「……ナナバさんが朝から意地悪だ」

「意地悪じゃなくて、優しさと言ってくれるかな」

お互いの顔を見つめて笑い合っていると、布団をかけ直してくれた。
そして、出る時に閉めてね、と言いながら部屋のカギを手渡される。
今日の私は朝から贅沢だ。ナナバさんといると、心が包まれるように温もっていくのが分かる。
どこまでも、どこまでも、あたたかい人だ。

「……さん」

「ん?」

「愛しいって、こういうことなんだね」

「はい?」

「決めたよ。仕事から帰ってきたら、想いを告げる」

「想いを、告げる!?」

「うん」

「……でも、誰とも深い関係にならないって言ってたのに」

「心境が変わった。まあ覚悟はしてるし、思いきりふってくれていいからね、さん」

「……わ、たし!?」

呆然とする私の手を握り、それじゃあ行ってきます、と笑顔で言い放ってきた。これは、不意打ちだ。
昨日に引き続き顔が火照るが、行ってきます、の挨拶に対し、行ってらっしゃい、とこちらも笑顔で返事をする。
そして、肌の白い骨ばった手が虚しくも、離れた。
ナナバさんは扉を出て行くまでの短い距離を何度も振り返りこちらへ手を振ってくるので、声を出して笑ってしまう。
扉が閉められ姿が見えなくなると、間もなくして静かな空間が現われた。
余計なことを考えそうになる脳を阻止すべく布団へもぐり込むと、ベッドへ残る心地良い温もりに満たされる。
もっともっとナナバさんとたくさん話をしたい、ナナバさんを知りたい、素直にそう思う。

しかし、何故か先ほどから脳裏に浮かぶのは……。









*NEXT*








-あとがき-
ナナバさんが主役の第21話、でした。
長くてすみません……。読みつかれませんでしたか?もう、本当にごめんなさい。
しかし、今までの中で一番甘かったような気がします!笑
ああ、ナナバさん、生き返らないかな。ちょっとハンジさん、錬金術!←絶対ダメだろ

前半に古城で登場した「手帳」ですが、アンヘルとホルヘは小説版に出てくるお二人です。
古城がいつから旧調査兵団本部として使われていたか不明なので、手帳は誰かが古城へ持ち込んだものと考えてください……すみません。←おい
ありがとうございました。