挑戦の枝 



-前編-



今、私の右手が頑張ろうとしている。
来月に控えた体育祭の団旗を作成するリーダー、その名も団旗長を誰がするかで立候補を待っている状態だ。
誰かが立候補しないとホームルームが一生終わらないぞ、などと脅しをかけてくる担任はひらひらと手を挙げる格好を見せつけてくる。
今まで何事も裏方役が多かったが、目の前にリーダー的存在になれるチャンスがある。団旗長、かっこいいじゃないか。
手を挙げたい、ものすごく挙げたい、けれども私などが団旗長を務めて良いものか。大体から団旗というのは団の皆を応援する意味を込めて迫力のある絵を描くわけで。まず自分に絵心があったかどうか、そこからである。
いいや、今悩んでいても後になって立候補しとけば良かったと後悔するぐらいならいっそうのこと。しかし自分勝手に立候補をしたせいで可笑しな団旗が出来上がったら問題じゃ……ぬあああああ!
心で叫びなから頭を抱えると、隣席の友人が私の手首を掴み、上へ掲げた。
「先生ー。及川さんが団旗長をしたいそうです」そう友人が言うと先生もクラスメイトも歓声を上げ、即座に団旗長に任命された。
素晴らしい、一言も発することなく決まってしまった。
気持ち悪い汗を浮かばせて不審に何度も手を上げ下げしてたから立候補したいのかと思って、とピースをこちらに向けながら告げてくる友人。
汗と不審な手の動きだけで気持ちを読み取るとは、これが読心術というやつか。少しばかり強引ではあったにせよ、こ、心がちくりと痛くなったにせよ、戸惑う背中を押してくれたことに感謝である。
団旗長、団旗長、団旗長。まさかの団旗長。
学校行事などで代表になった経験が無いだけに一刻も早く作業に取り掛からないと。遅れをとるわけにはいかない。
団旗を作るとなると、まずはデザインを考えなければならないだろう。残念ながらまったくイメージが湧かないのだが。初っ端からどうしたものか。
体育祭をイメージするとなると、こう、激しい炎が燃え立つ様なんかを描けばいいのかな。それとも太陽からコロナが勢い良く噴き出している様などどうだろう。はたまた、輝いている白馬が凛々しく走っている姿とか、むしろペガサスでもいいか。
愉快かつ単純な思考を巡らせ様々なイメージを思い浮かべていると、「及川さん、掃除したいから机を後ろに……」そう声がかかった。
うつむかせていた顔を上げれば、ホウキを持ったクラスメイトが申し訳なさそうにこちらを見下ろしており、周囲の机は掃除の為に全て教室の後ろへと移動していた。
ぽつん、と一人。いつの間にやらホームルームが終わっているではないか。
あわてて机を後ろへ移動させ、掃除当番のクラスメイトに謝罪をし逃げるように教室を出た。なんて恥ずかしい。団旗長という肩書に興奮していたのか全く周りが見えていなかった。
……団旗長、か。何かに挑戦する意欲が湧いた自分をほんの少し褒めてやりたい。ね、最後まで頑張りなさいよ、私。

今夜は父も徹も早く帰宅したので、家族そろっての夕食となった。
和気あいあいと食事が進む中、母が突然、「あらあら、好きな人でもできたの?」などと私に聞いてきた。父と徹は持っていた箸を同時に落とし妙な空気が一瞬にして張りつめてしまう。母だけは楽しそうにほくそ笑んでいた。
どうしてそう思ったのかを聞き返すと、とても楽しそうな表情をしているから、との返答。ああ、そういうことか。

「好きな人だなんて、違うよ。今日嬉しいことがあって」

「あら、そうなの?」

台所で落とした箸を洗う父と徹が、嬉しいことってなに!?と声をそろえて聞いてきたので、思いきり頬を引きつらせてしまう。
もし、ここで団旗長をすることになったと報告し、「そんなことか」の一言で軽く受け止められたら気が重くなるので、あまり言いたくない。
台所から戻ってくる二人に内緒だと言い張れば、洗ったばかりの箸をまたしても同時に落とし、何やらぶつぶつとつぶやき始めた。

「な、内緒?つまり隠しごとだと!?やはり男か、男なのか!?……徹、学校では誰かに言い寄られていたりするのか?」

「……いないとは言い切れないかも。明日さぐってみるよ」

「ああ、頼むぞ」

「まかせて」

再び台所で箸を洗う二人の会話がしっかりと聞こえてきた。本人たちは小声で会話しているつもりなのだろうが、丸聞こえだ。
いったい何のさぐりを入れるのだか。残念ながら異性関係は何一つ無いので空振りになること間違いなしである。
台所から戻ってきた二人の表情が険しく、何故か沈黙の食卓となってしまった。母だけは先ほどから可笑しそうに笑っているのがシュールである。異様な空間に居辛くなり、急いで食事を済ませ自室へと逃げた。
扉を閉めながら溜め息を吐くと、胸辺りがじわじわと痛みだした。私だって言いたくないことの一つや二つ、あってもいいだろう。隠しごとをする子は悪い子だと言わんばかりのあの雰囲気。とはいえ、私の些細な反応に家族が敏感なのは昔からだ。ようするに、些細なことでも心配をかけさせてしまう世話のかかる子、そういう意味なのだと理解している。私に対するイメージを改善する為にも、自ら何事にも挑戦しないと。
ただ、こればかりは今すぐどうにかなるわけではない。少しずつ前進するのみ。さて、気持ちを切り替えよう。団旗に描く絵を考えないと。
用済みのプリントを裏返し、そこへ太陽(丸)を描いてみた。先ほど思い浮かんだ案の一つだ。太陽からコロナが勢い良く噴き出……。
丸からうねった毛が何本も生えている絵が完成した。なんだこの絵は。気持ち悪い。最悪だ、ここまで絵心がなかったとは。
まずい、まずいぞ、団旗長がここまで絵心がないと皆に知れ渡ったら強制的に解任されてしまう可能性もあるのではないか。どうにかして阻止しなければ。最後まで頑張ると決意した以上、あきらめるわけにはいかない。
もう一度描いてみよう。次は強い意思が宿る様をイメージして太陽の中心にするどい目、鼻、唇を描き加えてみた。表情があれば絵が引き締まるのではないだろうか。更にコロナも激しく加えて。
……もじゃもじゃな丸い生命体が誕生した。何だこれは、気持ち悪さだけが倍増しているではないか。

「なーに描いてるの?妖怪?」

「ひい!うわあああ!」

反射的に絵を両腕で覆い隠し、声のした方へ視線を向ければ真横に徹が立っていた。
いつの間に部屋へ入ってきたのだ。いつもノックをするように言っているのに。しかも絵を見られた。確実に見られた。よ、妖怪と言われた。
怒りが湧き起こり目を細めて睨んでやれば、「ノックをしても返事が無かったから勝手に入っちゃった、ごめん」そう笑顔で謝罪をしてきた。
どうやらノックはしてくれたらしい。絵に集中していたせいで気付かなかったのだろうか。
一応、気付かなかったことに対してこちらからも謝罪をし、今は忙しいので部屋から出ていくようにアゴで扉を差す。
だが、出ていく素振りを見せない徹は、私が腕で覆い隠している絵を指差し、妖怪を描く趣味があったとは知らなかったと意味のわからない発言をしてきた。

「その妖怪に名前はあるの?」

「も、モジャモジャタイヨウカイ」

「わあ、変な名前」

「うるさいバカ。……妖怪じゃなくて、体育祭の団旗に描く絵を考えてたの」

「団旗って、どうしてが?」

「内緒」

「団旗長になったとか?」

「へ!うそ、どうして知ってるの!?」

「え!適当に言っただけだよ!?」

お互いうろたえる目をしながら、またしても沈黙となってしまった。はあ、適当に言い当てられてしまうとは。
知られたならそこまでだ。先ほど母に楽しそうな表情をしていると言われたのは、団旗長になれて浮かれていたからだと白状した。
今まで代表という立場を経験したことがなかったので嬉しくて顔に出ていたと素直に伝えると、徹は衝撃を受けた表情を浮かべ口をぱくぱくしながら一歩一歩、危なっかしい足どりで後退していく。何をそこまで驚いているのだ。
対照的に呆れた表情を浮かべる私を見据えながら勢い良く扉を開け、大変だの一大事だの叫びながら駆けていってしまった。
直後、両親の驚く声が私の部屋にまで届き、再び息を切らした徹が部屋へと現れたかと思いきや、無理に椅子から立たされ、背中を押され、部屋を出てはリビングへと誘導された。
母は普段使わないお洒落なカップを食器棚から取り出し、父は菓子箱の包装紙を開けている最中であった。
徹が、連れて来たよ、と両親に声をかけると、父も、母も、満面の笑みでこちらを見つめてくるので焦ってしまう。

「さあさあ座って!今夜は祝いだ!好きなだけクッキーを食べなさい!お父さんも食べるぞ!」

「お、大声出さないで暑苦しい」

「嬉しいときにこそ大声は出すもんだろ!、団旗長ってのに任命されたんだってな。すごいじゃないか。父さん達に詳しく話を聞かせてくれ」

詳しくと言われても、立候補しようか迷っていたら私の気持ち悪い汗と不審な手の動きを見兼ねた友達が……、と一から説明すれば良いのだろうか。いいや、そこまで詳しく言う必要もないだろう。家族に気持ち悪い汗と不審な手の動きを想像されたら辛いものがある。精神的に。
わくわくとした表情を向けてくる家族に圧倒されつつ、成り行きで決まったと簡潔に述べておいた。
「成り行きを詳しく教えて!」そう徹が明るい声で言い放ってきたが無視しておいた。

「ちょ、どうして無視するのさ!ひどい!」

「徹うるさい。クッキーを口の中にいれたまま喋るんじゃないバカ」

「もう、は細かいなー」

「あ、なにその呆れた顔。細かいじゃなくてマナーの問題でしょ!」

双子の言い合いが始まると、「ケンカだわケンカ、動画撮らなくちゃ」などとつぶやく母が湯気の立つカップを私達の前へ置いてくれた。
手が空くなりすぐさまポケットから携帯を取り出し動画撮影を開始したので口ごもってしまう。これは母の策略だ。撮影となれば私が大人しくなると母は知っている。徹は撮られることに慣れているのかウインクを飛ばすほどの上級者だが。数秒後、息子のウインク動画なんていらないわと毒を吐く母は撮影を終了させた。俺のウインクはレアだの何だの、隣で騒ぐ弟の脇腹に肘鉄をくらわせ沈ませる。はあ、やっと静かになった。
花柄のカップを手に持ち一口飲み込んだ。湯気からは華やかな紅茶の香りがした。
母が台所へポットを取りに行く後ろ姿を見つめながらクッキーを一枚食べた。しっとりとした優しい食感。甘いものを食べたあとに苦味のある紅茶で口内を緩和させる。これがたまらない。よし、もう一枚。
二枚目のクッキーを頬張っていると父が、ふとつぶやいた。俺の知らないところで成長しているんだな、と。

「成長?してるのかな?」

「確実にしてる。はあ、寂しいなあ……」

「寂しいって何よ。そこは嬉しいじゃないの?」

「娘が成長するとなると、なんだかな。幼いままずっとそばに置いておきたいと言うか。心細くなるばかりだな」

父の言葉に徹が大きくうなずき、分かるよその気持ち、などと言い出したので母に紅茶の礼を言い速足で自室へと戻った。
いきなり何を言い出すのだ何を。そばに置いておきたいだなんて。まあ、大切に思われているのは素直に嬉しい。しかし私の場合は、大切に思われているというよりも、やはり心配されているのだ。こちらを見てくる父の表情は明らかに心配そうだった。あんなに眉を垂れ下げなくてもいいじゃないか。それに徹も、父に便乗する意味が分からない。弟に心配されたら姉は情けない気持ちに駆られると奴は知らないのだ。

翌日、団旗に描く絵を決める為、皆に声をかけてみてはどうかと担任より案をいただいた。
そうか、何もかも一人でするのではなくクラスの皆に協力してもらうのも一つの手だ。
さっそくA4用紙をクラスの人数分用意し、一人一人に配った。団旗に描く絵を決めたいのでご協力ください、そう声をかけながら。
皆、拒否することなく用紙を受け取ってくれた。面倒くさいと言われる覚悟を少なからずしていたのだが、むしろ提出期限を聞かれ焦ってしまう。
提出期限は余裕を持って一週間を設けた。だが、結局は三日以内に全員が提出してくれた。A4用紙をフルに活用して端から端まで絵を描いている人もいれば、絵のイメージが湧かなかったのか丁寧に箇条書きで希望を記入している人もいて、クラスメイトの協力的な姿勢には感謝しなければならない。
担任の担当科目である授業時間を三十分いただき、集まった絵や意見を並べ、皆で団旗をどうするか決めた。
私の描いた丸い生命体(太陽とコロナ)が却下されたのは当然として、虹を描くこととなった。ただ筆や刷毛で描くのではなく、皆の手形や足形で。下書き無しの一発勝負。考えただけでそこらじゅう汚れそうな作業となりそうだが、なんとも楽しそうである。
美術部へ所属しているクラスメイトに様々なことを教わり、購買部にて団旗用の絵の具を注文しておいた。虹の七色に加えて黒と白。この九色があれば十分らしい。
後日、大きな団旗が生徒会より配布され、絵の具も全色が届いた。バケツと使い古した雑巾やタオルを数十枚用意し、いざ団旗作成スタートである。
先生の許可を得て、教室から廊下の端へと移動し、そこへ団旗を広げた。三年生の為、教室内では放課後に勉強をする生徒もいる為、邪魔をするわけにはいかない。
まずは虹の一番上、赤から。手伝ってくれている一人一人が手や足に赤の絵の具を塗りたくり団旗へ、ぺたり。
男子の一人が誰よりも先に団旗へ手形を押し、うわあホラーだ!ホラーでしかない!と声が上がった。真っ白な大きな団旗に、赤の手形が一つ。確かにホラーだ。ホラーをもみ消せ、との誰かの合図で全員が自分の手形、足形を団旗へ押した。緩やかなカーブを描く虹の一部分が完成し、次は橙色を用意。
途中、元気の良い男子が顔面に絵の具を塗りたくり、ぺたり。それを見た更に元気の良い男子がシャツを脱ぎ捨て割れている腹筋に絵の具を塗りたくり、ぺたり。女子の呆れる声が飛び交いながらも笑い声は絶えなかった。

ある程度の時間になると部活へ行くクラスメイトが相次いだ。
何かあったらグラウンドにいるから呼んでくれ、などと腹筋を絵の具で染めながら告げてくる男子は野球部の主将だと今日知った。
俺は第二体育館にいるけど困ったことがあれば飛んでくるから、そう爽やかに言い放つ男子はバスケットボール部の副主将だと今日知った。
私も駆けつけるから呼んでね、と男子がいるというのに気にせずユニフォームへ着替えを済ませた女子は陸上部のエースだと今日知った。
クラスメイトの所属する部活など全く知らなかったので、驚くばかりである。……何やら素晴らしい人達が揃いに揃ってるではないか。どおりで皆しっかりしているわけだ。
おかげで初日から大きく作業が進んだ。これだと来月の体育祭までには十分間に合うだろう。
部活の他にも、習い事、アルバイト、皆が次々に抜けていき、ついには私一人となってしまった。最後まで作業を手伝ってくれていた男子が家まで送ると気を遣って声をかけてくれたけれど、申し訳ないので遠慮しておいた。まだ外も明るいし平気だ。何より私を狙う変質者などそうそういないだろう。
一人となり改めて虹を描いた団旗を少し離れて見つめてみる。……ん、どこか単調すぎるような。メインの虹が見事に主張されているが、もう一捻りあってもいいかもしれない。これは課題だ。よし、団旗長として良いアイデアを思い浮かばせてみせる。才能の無い頭を最大限ふりしぼって。
さて、課題は考えるとして今日はここまでにしておこう。
使用した道具を全て片付けた後、何気なく廊下を見てみる。すると赤や橙の絵の具がそこらじゅうに付着していた。この汚れ、案の定予想通りだ。
放置しておくなど団旗長として論外なので、絞った雑巾で汚れを拭き取っていく。綺麗にしておけば先生に文句を言われることもないし、明日の作業もはかどること間違いなしだ。一石二鳥〜一石二鳥〜、と汚れを拭き取っている間鼻歌を歌い続け、グラウンドから聞こえてくる部活動の掛け声と不協和音なセッション。
それから約一時間後、次第に掛け声も聞こえなくなり、校舎内を見回る警備員さんより声がかかった。そろそろ帰宅するように、とのことだ。
しかし、まだ廊下が汚れている。一応返事だけをしておき、もう少し掃除に専念することにした。
見つかったら怒られるかもしれない現状で、はらはらしながら掃除を続けていると、またしても声がかかった。だが、その声は良く知る声で、後ろを振り返ると岩泉くんがタオルで額を拭きながらこちらを見下ろしており、肩をなで下ろす。

「こんな時間に何してんだ?廊下に這いつくばって」

「いやあ、絵の具が廊下にたくさん付着してしまって」

「……ああ、団旗か。でもお前、そろそろ帰る準備しねぇと校舎閉まっちまうぞ?確か完全に閉められるのが八時だったはず」

「八時?待って、今何時何分?」

「体育館を出たのが七時五十分だったから今は五十五分ぐらいか。時間も見ねぇで作業してたのか?まあ、まだ職員室に明かりがついてたし、どうにでもなるがな」

時間の流れの早さに驚きながら会話をしていると、廊下の蛍光灯がいっせいに消灯され、軽く悲鳴を上げてしまった。
明るさに馴染んでいた目は急に暗くなると暗闇の中に放り込まれたように何も見えなくなる。
なんだこれは、何もいっせいに消さなくてもいいじゃないか。心臓に悪いったらない。
頭の中でぶつぶつ文句をつぶやいていると、カバンをどこに置いているのか訊ねられた。そのへんに置いてある、そう答えると、岩泉くんは中腰になり窓から差し込む街灯の薄暗い明かりを頼りに手探りで探し始める。自分で探すと言ってみるものの、雑巾を洗ってくるよう強い口調で指示が飛んできたので、言われた通り壁を伝い洗い場へと急いだ。
次第に暗さが目に馴染み、洗い終えた雑巾を干していると、背後より声がかかりカバンを手渡される。

「あの、ごめん、迷惑かけて」

「いや、気にすんな」

「ところで岩泉くんはどうして校舎に?何か忘れ物?」

「ああ、傘をな」

「傘って、まさか雨降ってる?」

「ああ、小降りだが降ってるぞ」

最悪だ。この後、濡れて帰る運命が待っているらしい。八時だとバスの最終便が終わっているので全力で走るしかない。
岩泉くん、きっちり置傘をしているとは私などより女子力が高いじゃないか。見習わなければ。

「そうか、傘ねぇのか」

「へ?」

「顔にそう書いてある。取ってくるから下駄箱で待ってろ。家近いんだし送ってやるわ」

い、岩泉くんの真の正体は正義のヒーローだろうか。いいや、女神の生まれ変わりかもしれない。何であれ救世主に変わりはないようだ。
ありがとうございます、ありがとうございます。何度も頭を下げる私に、早く下駄箱行ってろ、と呆れたように告げ傘を取りに行ってしまった。このような薄暗い中を走って行くとは、よほど目が良いのだろう。
対照的に壁に手を添えながら階段を下っていると、勢い良く駆ける足音が聞こえてきた。

「なんだお前、下駄箱で待ってろっつっただろ」

「もう傘取ってきたの!?まさに瞬間移動!」

「バカなこと言ってんじゃねぇ。ちんたらしてると閉められんぞ。ほら、来い」

この展開、手を繋がれると思いきや手首をがしりと掴まれ、引っ張られながらガニ股で階段を駆け下りる始末である。大体、廊下や階段は走っちゃいけないのに。何より色気が皆無だ……。
まあ、転げ落ちることも無く無事に下駄箱までたどりつけたので文句は言わないでおこう。
ちょうど校舎の扉が施錠されている最中であり、警備員さんに頭を下げながら素早く外へ出た。なんとか間に合ったようだ。
岩泉くんが傘の準備をしていると、第三体育館からボールの跳ねる大きな音が聞こえた。第三体育館と言えばバレーボール部が使用している場所。誰が残っているのか岩泉くんに聞けば、お前の弟だと返事が返ってきた。

「あいつの帰るタイミングは、いつも部員の中で一番最後だ」

「どおりで帰りが遅いわけだ。でも、岩泉くんも大体は徹と一緒に帰ってるよね?」

「オーバーワークしねぇよにう見張ってんだよ」

「……徹が心配で?」

「倒れられたら困んだろ。あれでも一応主将だし。もういいだろ、行くぞ」

岩泉くんが一歩を踏み出したところで、大きなスポーツバッグのベルトを掴んでしまった。咄嗟に手が動いたのだ。こちらを振り返る彼に、第三体育館へ行ってみたいと告げてみる。徹が練習している光景を一度見てみたい。これまでに何度か部活を見に行こうとはしたが、双子だと騒ぎ立てられるのが怖くて避けてきた。しかし、今なら……。夜の八時まで学校に残っている生徒はほぼいないだろう。心置きなく徹へ視線をそそげる。
岩泉くんは頭を掻きながら第三体育館へ足を運び、重そうな扉を開けてくれた。
扉が開いた途端、徹が跳んだ。強烈なサーブを打つ瞬間であった。広い体育館に一人だというのに、とてつもなく大きな存在感がそこにあった。
恐ろしいサーブに圧倒されていると、隣にいた岩泉くんは、「今のアウトだな」そう徹に声をかける。

「あれ、岩ちゃん帰ったんじゃ、ん、?どうしてこんな時間にが学校にいるの!?」

「ほら、団旗よ団旗。今日から作業が始まって」

「ああ!なるほどね。で、なになに、俺を迎えに来てくれたの?」

「違う。徹の練習姿を見にきたの」

「ぐっ、が!俺に興味を……!?うわああああ!岩ちゃんどうしよう!」

騒ぎながら岩泉くんに駆け寄る徹の右頬に、見事なストレートパンチが決まった。ぐぬふっなどと声を漏らしながら踏ん張る徹ときたら、笑顔である。変に打たれづよいと言うか何と言うか。
徹の可笑しな強さに呆れていると、脇に抱えていたボールを山を描くようにこちらへ軽く投げてきた。

「あー、キャッチしちゃだめでしょ。打ち返してくれなきゃ」

「は?私がバレーど下手なの知ってるくせに、まさか、姉への嫌がらせ」

「ちーがう!はあ、もう今日はいいや。帰ろっか。ちゃちゃっと片付けるから待ってて」

なんと、もう帰るらしい。練習を見にきたというのに、結局のところサーブ一本で終わってしまった。まあ、その一本がとてつもない迫力だったので満足だが。
体育館内のあちこちに転がっているボールを拾い集める徹を見ていると、岩泉くんがカバンを床へ置き手伝い始めた。私も続きボール拾いの手伝いを開始。それにしても何球転がっているのだ。球数に比例する練習していたと考えると、弟の熱心な姿勢には尊敬するばかりだ。
両腕の中にいっぱいになるまでボールを拾い集めていると、徹と岩泉くんの視線を感じ、なに、と問いかけてみる。

「……や、なんていうか、マネージャーがいたらこんな感じなんだなって思って。ね、岩ちゃん」

「ああ、男として卒業するまでに一度味わいたかったんだよな。花巻がいたら泣いて喜ぶぞ」

なんのこっちゃ、である。
徹にいたっては携帯が部室だの写メが撮れないだの頭を抱えて嘆きだす始末であり、冗談にしても気持ち悪かったので無視しておいた。もし、この場で写メを撮ろうものなら史上最強の変顔をきめてやるが。
ボールを集めながらさり気なく変顔の練習をしていると、外より聞こえる雨音がいっそう激しくなった。いまだ嘆く徹に、傘を持っているか岩泉くんが訊ねる。

「傘って、まさか雨降ってる!?」

「姉とまったく同じ答え方してんじゃねぇよこの双子どもが」

双子して傘がないときた。となると一本の傘に三人……?傘を借りる立場からこんなことを言うのも失礼だが、むさぐるしい想像しか湧いてこない。
岩泉くんのことだから徹には走って帰るよう指示するかと思いきや、眉間にしわを増やすだけであった。むしろ早く部室から荷物を取ってくるよう徹の尻を叩き、その間に手際良く第三体育館の窓と扉のカギを閉める。主将が主将だけに副主将しっかりしてるな、そう感心した。
第三体育館の玄関前で雨宿りをしていると、徹が走ってきた。それを確認した岩泉くんは傘を私へ渡す。
なんでも、私が真ん中で左右に男二人の配置が一番いいとのこと。

「お待たせー!本格的に降ってきたね。遠くで雷も鳴ってるみたいだし早く帰らなきゃ」

「雷?雷鳴ってる?」

「鳴ってるよ。聞こえない?」

「全く聞こえない」

双子だというのに聴力まで差があるとは。何かにつけて徹は優れているこの事実。心の底から悔しいが、深く考えないでおこう。いつものこと、いつものこと。
ジェラシーを感じながら傘をさすと、ジェラシーの根源が私の右腕に自分の左腕を絡みつけ密着してきた。
もう少し離れるように一喝したが、濡れるのが嫌とのことで更に密着してくる始末である。雨も何も部活の汗でびしょびしょのくせに何を言ってるんだか。
続いて岩泉くんも傘へ入ろうと近付いてきたが、「……やっぱ濡れて帰るからいいわ」と言い出し、双子そろって首をかしげた。
後ずさる岩泉くんに理由を問いつめると、女子に密着するのが苦手だと小声で言い出し、こちらが固まってしまう。徹に慣れているからか、岩泉くんの可愛い反応がとても新鮮だ。密着するのが苦手だなんて。

「い、岩泉くん、私を男子だと思えばいい!ほら、徹の双子だよ?もう一人徹がいると思えば何ともないでしょ?」

「やめてくれ、うざいの二人はきついだろ。俺の精神がもたねぇ」

「素直にごめんなさい」

私達の会話に徹がわめいたが、放っておいた。さて、どうしたものか。
第一、岩泉くんが濡れて帰るのは可笑しな話だろう。この傘は岩泉くんの物なのに。この場合、私が濡れて帰るべきだ。さすがに徹となら密着してもウザイの一言で済むだろうし。よし、決まりだ。
ここで私の考えを言葉にしたら岩泉くんは遠慮するだろうから、傘を渡したら即刻走って立ち去ろう。
さっそく傘を渡し走りだそうとしたところで手首を掴まれた。の考えなんてバレバレ、そうつぶやく徹はウインクを飛ばしてくる。
私の手首から手を放し、岩泉くんに傘を貸してくれと言葉をかけた。鼻歌を歌いながら傘をさす徹ときたら腹が立つほどに笑顔である。

「じゃあ、俺が真ん中ね!はい、二人共俺の左右に寄っておいで!」

「その手があったか!」

「その手があったかじゃねぇよ!ああもう畜生、悲しくなってきた」

徹の案に感心する私に対し、岩泉くんは額に手を当て溜め息を吐いた。
いざ一本の傘で三人仲良く雨の中を歩くと、傘に入りきれていない肩がびしょ濡れになったが、水たまりをまたいだり、車が通るとぎゅうぎゅうにひっついたり、岩泉くんが奇妙な悲鳴を上げたり、徹が私の腰に手をまわしてきたのでつねってやったり。
この楽しい時間を過ごせたのも、団旗長になったおかげだろうか。何でも挑戦してみるものだ。意外なところでご褒美が待っているらしい。
いつもの見慣れた帰り道が、とても輝かしく見えた。





*後編へ*