どうすれば三日月様を救えるだろうか。
 あの穏やかな笑顔を取り戻したい。



 我が本丸の三日月様は常々のほほんと微笑まれている。笑顔が消えた日など一度さえもない。食事をするとき、畑仕事や馬の世話をしているとき、手入れをしているとき、はたまたうたた寝している時でさえ笑みを浮かべているのだ。
 穏やかという言葉が誰よりも似合う。

 また、穏やかでありつつどこか抜けている。
 いつの日だったか、自室で本を読んでいたときのこと。短刀の皆様と畑仕事をしたと下半身を泥だらけにして訪ねてきたことがあった。なんでも、特大サイズの大根を引き抜き湿った土へ尻もちをついたとか。……そこまではよかった。畑仕事に励んでくださることはいいことだ。だが、下半身が泥だらけのまま座布団に腰を下ろしたときは驚愕した。思わず声にならない悲鳴を上げると、「腹でも痛いのか?」と斜め上に捉えられてしまったので、腹ではなく頭が痛いと言っておいた。
 別の日、脇差の皆様と洗濯物を干していたときのこと。
 突拍子もなく、「俺も洗濯物が干したい」などと言い出し大いに手伝ってくださったのだが、その後腰痛を引き起こし手入れ部屋へ直行した。何時間と腰をぽんぽんしたというのに、痛みがとれないイレギュラーな事態が発生。結果、干す作業を手伝ったことにより一週間ほど出陣不可能となった。
 風呂場で転倒し大きなたんこぶを作ったこともあれば、湯のみと茶碗を間違えるなどは日常茶飯事。
 抜けている行動を言い出すときりがない。

 そんなお茶目な一面を日常の生活では見せてくれるが、戦闘となると、それはそれは強い。
 三日月様は仲間の刀剣を大切に想われており、誰かが少しでも傷をつけられると攻撃の過激度が増す。破壊となった相手へ更なる一太刀を振り下ろし木っ端微塵にしてしまうこともしばしば。今までに何度かその現場を目にしたが、いくら敵とはいえ気分のいいものではない。
 まあ、始末した後は早く本丸へ帰還しようと穏やかな雰囲気で皆様の背をぽふぽふ押すのだが……。ここで騙されてはいけない。このように真剣な戦いをした後もふと気の抜けた行動をしてくるのが三日月様だ。そう、道中に茶屋や甘味処でもあろうものなら隊から一人離脱し一服を楽しむという空気を読まない奇行を堂々とするのである。そのせいで少々騒ぎになったことも。
 戦場から本丸へ帰還し玄関で靴を脱いでいると、「ん、三日月のじいさんはどうした」と出迎えてくださった鶴丸様がいつもの調子で言うもので、数秒してから事の重大さに気づいた。
 六人で出陣したはずなのに、そこには三日月様を抜いた五人しかおらずどれほど焦ったことか。知らず知らずのうちに深い傷を負い道端に倒れているのではないかと最悪な状況ばかりが脳裏に浮かび、気づけば駆け出していた。
 再度戦地へ出向き道中を探せば、とある茶屋で両手に団子の串を持ち幸せそうに口をもぐもぐ動かしている張本人を見つけた。正直に言おう、あの時ばかりは怒りが湧いた。可愛らしく団子食べてるよあのじじい、などと少々汚い言葉を心中でつぶやいてしまったのはここだけの話。とはいえ、さすがに全員が怒りをあらわにし、長谷部様など頭を抱えて地面に座り込んでいた。
 ぽかんとした表情でこちらを見つめ、すまんすまんと謝罪をしながらも団子を頬張る姿には呆れたが。はあ、何であれ一安心である。
 詫びということで全員分の団子を三日月様が購入してくださり、渋々頬張った。軽傷の一期一振様もご兄弟と美味しそうに食べていたので、まあ、終わりよければすべてよし、ということにしておいた。

 このように超絶なる破茶目茶な三日月様だが、本丸中の誰もが彼を信頼している。
 信頼されるということは、それ相応のことがあってこそ。
 私が仕事に明け暮れている間にも、三日月様は周囲に目を配り、皆様の変化を事細かく見てくださっているのだ。困っている者には手を差し伸べ、間違いを見つけると注意を促し、良いことをした者にはうんと褒め称え、努力をした者にはとっておきの茶菓子を振舞っているらしい。
 また、刀剣の付喪神である皆様は、ふとしたことで遠い過去の記憶に触れ精神を病まれることがあるのだが。そういうとき三日月様は励ましの言葉などは一切かけず、のほほんと側に居座り、時に一緒に泣いてくれることもあると聞いた。
 審神者としての仕事に追い掛け回され常々精一杯の私などより、よっぽど信頼されているのではないだろうか。そう思ってしまうことも度々。皆様の笑顔を見ている限りだと、誰もが三日月様に心を開いていると言い切れる。

 実を言うと、私自身も三日月様には救われたことがある。
 以前に、時の政府へ提出しなければならない書類作成が朝方までかかり、超絶なる寝不足から意識が朦朧としている日があった。頭がすっきりせず視界にもやがかかり、廊下を歩けば真正面から壁に激突し額を擦りむくという失態。
 そのような日に限って食事当番であり、ついやらかしてしまったのだ。眠気で足元がふらつき踏ん張ろうとしたのだが、かかとでズボンの裾を踏みつけ体勢を崩したそのとき、湯を沸かしていた鍋の取っ手が袖にひっかかり、右足の大部分に熱湯が降り注いだ。
 右足から大量の湯気が立ち上る中、厨は騒然となり、同じく食事当番であった一期一振様と鯰尾様は二人して腰を抜かしてしまう事態である。お二人共みるみるうちに顔から血の気が引いていくもので、己の右足が熱される痛みよりも、過去の記憶を刺激してしまったことに気づき焦った。無我夢中で厨の火を全て消し、お二人を抱きしめ、自分は大丈夫だとお伝えすると、なんとか落ち着きを見せ、直ぐ様処置をしてくださったのだが。
 右足の皮膚はただれ、肌の色が変色してしまった。長期に渡り高額な治療費を払える財力があるのならばそれなりに治すこともできるが、そうでないのならこればかりは背負って生きていくしか無いと医師に告げられ、じわじわとあふれ出る涙を何度拭いたことか。いつも光忠様に適当な格好をしてはいけないと注意されていながら楽な衣服を愛用していた罰だろうか。
 右足は一歩を踏み出すだけでも皮膚が裂けるかのような突っ張る感覚に激痛が走り、風呂など皮膚に水気を当てずとも地獄でしかなかった。
 皆様の手助けを受けながら二ヶ月の月日が流れ、次第に皮膚の痛みが治まり、医師に包帯を外しても良いと言われたのだが。外したところで変色した凹凸の皮膚をさらけ出してしまうことが何よりも苦痛であり、半年ほど包帯を外さず過ごしていた。
 ある日の夜、自室で仕事をしていると三日月様が訪れ、遠慮のない質問をしてきた。「主、すかーととやらはもう着てくれんのか」と。
 唖然としてしまった。何故そのような質問を。意地悪としか思えない。火傷痕が色濃く残るこの右足をさらけ出すなどと。
 書類へ押印する手を止めず平然を装い、どう返事をすればよいか内心困惑していると、三日月様は独りでに喋りだした。膝より丈の短いスカートは皆様に人気があるらしく、久しく私のスカート姿を見ていないとのことで酒の肴として取り上げられたらしい。ああ、やはり神様でも男性なのだな、そう思わざるえない話題である。
 曖昧な返事をするのも失礼なので、はっきりとお伝えした。今後、スカートを着用することは無いと。
 数秒ほど沈黙となった直後、三日月様はおもむろに私の右足へ手を伸ばしてきたので咄嗟に退けば、無防備であった左足を鷲掴まれ少々乱暴に引き寄せられた。突然のことに荒々しく息を吸い込み悲鳴を上げようとしたが、素早く首に片手を添えられ、あまりに恐ろしく声を出すこともできず。
 ついには右足を掴まれ、乱れた浴衣の裾を大きく開き、包帯を剥ぎ取られた。凹凸が目立ち、変色している皮膚を三日月様は悲しそうに眺め、優しく、優しく、撫でてくださった。そして、何故かご自分の右足も撫で、満足そうに微笑み部屋を後にされた。ただ一言、「またすかーと姿を見せてくれ」と言い残して。
 そのようなやり取りがあった翌日の朝。自分の目を疑った。右足から火傷の痕が綺麗に消えていたのだ。
 即座に思いついたのは昨夜の三日月様の行動であり、部屋へと駆け込んだ。そこには寝間着から作務衣へ着替えている本人がおり、私を見るなり呑気に朝の挨拶をしてくる。一応こちらからも早口で挨拶をし、昨夜何をしたのか率直に聞いた。
 しかし微笑むだけで答えてはくれなかった。ただ、長く生きていると様々な知恵がついてな、そう障子戸を開けながらつぶやき、内番の仕事があるとのことで部屋を後にした。
 
 ――それから一週間後、私は全てを知ることになる。
 出陣をした戦地で検非違使との連戦になり、三日月様が立て続けに攻撃を受け重傷で帰還された。早急に手入れ部屋へ運び込まれ、清潔な布で血を拭き取っていく。力なく横たわる三日月様に心配の念が湧きつつも、ふと足裾から肌が見え目が止まった。その肌が赤黒く変色していることに気づき裾を捲し上げると、火傷の痕が右足に刻まれており言葉を失った。魔法をかけられたかのように綺麗になった右足がちりちりとうずき始める。疑問に思っていたことが少し繋がった。私が負った火傷を三日月様はご自分にすり替えて……? そのようなことが神様はできるのだろうか。今すぐ本人に聞きたいところだが、息絶え絶えの中、聞けるはずもない。まずは手入れだ。
 血のあふれる傷の手入れを優先し、その後変色している右足の手入れを長時間してみたが、どれだけ資源を費やそうと火傷痕は消えなかった。
 ……このままではいけない。私の不注意で負った傷を三日月様に背負わせるなど、とんだ罰当たりではないか。
 翌日、三日月様が目を覚まし、縁側にて茶を楽しまれていた際に隣へ腰を下ろし聞いてみた。右足の火傷痕は私のものですよね、と。

「はっはっは、気づかれてしもうたか」

「笑い事じゃありません」

「まあまあ、よいではないか。俺が勝手にしたことだ。そう気にするな」

「気にしますよ。その火傷痕、私の右足へ戻してください」

「何故だ?」

「自分で負った傷は自分で背負います」

「んん、悪いがこの火傷痕は既に俺のものだ。返してはやらんぞ」

 何度も何度も火傷痕を戻して欲しいと頼み込むが全て軽く受け流されてしまうので、私に戻すまで食事抜きにしますよ、そう脅してみた。しかし、構わん、と笑顔で返事をされ罪悪感が募るばかり。
 なんだろう、この底なしと言えるほどの優しさは。一体何なのだ。終いには罪悪感におし負けこちらが泣き出してしまえば、指先で涙を拭ってくださった。
「泣くな泣くな、主は笑顔がよう似合う」そう耳元でささやかれ、涙どころか鼻水も大量に垂れ流し作務衣を汚してしまったのは言うまでもない。
 優しさが逆に辛かった。

 このように私の話は一例でしかないが、三日月様は日頃より皆様の調子を伺い、笑顔を守ってくださっている。気づけば審神者である私自身も、心から三日月様を信頼していた。

 火傷事件の後、魔の寝不足にならないよう生活改善に努めた。
 書類の仕事が大量にある日の食事はおにぎりにしていただき部屋でとる。短刀の皆様からの誘いは余裕がある時のみお受けする。出陣に関しては今まで戦地へ同行することが多々あったのだが回数を減らした。こうして生まれた時間で、自身にしか処理できない審神者としての仕事に励んだ。
 このように少しでも効率よくこなせば寝不足にならずにすみ、迷惑をかけることも減ったように思う。
 皆様に支えられ、審神者としての日々を全うできているがゆえに、いつか恩返しをしたいという勝手な気持ちも多々あふれるようになった。
 そんなとき、粟田口派の短刀の皆様が、雪を見てみたい、と一期一振様に懇願している現場を廊下の曲がり角で目撃。忍び足で近くの部屋へと身を隠し、障子戸へ耳をつけしっかりと盗み聞きをした。
 雪だるまを作ってみたい、雪うさぎも、あと雪で玉を作ってそれを投げ合う遊びもしてみたい、とのこと。
 なるほど、我が本丸は桜の風景を好まれる神様が多い為、春で固定していたのだが。……よし、短刀の皆様に喜んでいただくとしよう。
 急ぎ足で自室へと戻り、冬の景趣を時の政府へ問い合わせてみた。三十分後には切り替えが可能との返事であったが、どうせなら翌朝がいいだろう。朝目覚めて雪景色になっていたら……。
 明日の早朝に冬の景趣へ切り替える手配をし、ふにゃりと緩んでしまう頬を両の手で叩き皆様にバレないよう徹した。鶴丸様には到底及ばないが、サプライズである。

 翌朝、早朝にも関わらず部屋の障子戸がスパーーーンと豪快に開き、寝ている私へと誰かが勢いよく覆いかぶさってきた。つぶれるような声を上げる私を布団ごと揺さぶってくるのは乱様であり、どうしたのか訊ねると。

「外に白いのがたくさん積もってて、触ったら冷たいんだ! もしかして、雪かな!?」

「おお、それは間違いなく雪ですね!」

「ううう、やったー!」

 乱様は寝間着姿の私を布団から引っ張りだし、軽々と横抱きにしては外へと駆け出した。なんという男前。
 外の景色は絶景であった。一面真っ白だ。……だが、寒い。想像以上に寒い。既に遊び始めている平野様と前田様の格好はいつも通りだが、どう考えても風邪をひいてしまう。神様が風邪をひくかは謎だが、念には念を。
 乱様に降ろしていただき、本丸内全員分のコートとマフラーの発注手配をした。サイズはおおよそでいいだろう。この際、蔵の奥底に溜まっている小判をふんだんに使おうじゃないか。
 三十分後には商品が届き、対応の早さに感激した。まずは短刀の皆様にコートを着せマフラーを巻いて差し上げた。コートを着ている姿が可愛いのなんのである。案の定指先がこれでもかと冷えきっていたので、皆様の手をお一人ずつ包み込むと全員が笑顔で礼を述べてくださった。小さな身体でありながら、いつも夜戦で頑張る皆様に喜んでいただけて、嬉しくてたまらない。
 隣で寒そうに控えていた一期一振様にもコートを手渡し、首にマフラーを巻いて差し上げた。さすが一期一振様、格好良く着こなしている。

「主、何から何まで……どうお礼を申し上げたらよいか」

「むしろお礼を言わなければならないのは私です。いつもありがとうございます」

「そんな、とんでもない。刀である私どもに礼などと」

「関係ありません。これからもたくさん言いますね。ありがとうございます、ありがとうございます」

「……あの、主、私を困らせんでください」

「はい、すみません。それにしても雪は興奮しますね、私達も行きましょう!」

「ええ、お供いたします」

 皆様の楽しそうな笑顔を見ていると着替えている時間さえも惜しく感じてしまう。後々光忠様のお叱りを受ける覚悟で寝間着の上にコートとマフラーを身につけ、外へ駆け出した。皆様との楽しい時間を一秒でも長く過ごしたい。
 時間が経つに連れ庭は更に賑わいを見せた。朝餉の時間になっても雪遊びが続く現状を見兼ねた光忠様は、おにぎりを準備してくださった。これなら手っ取り早く食べれるでしょ、朝餉を抜くのは体によくないからね、とのこと。さすがである。
 縁側にて雪景色を見ながら一句詠んでいる歌仙様。その近くでは次郎様と日本号様が朝から雪見酒。長谷部様は誰かが雪の上で転ぶとすぐに駆けつけ注意をしつつ服についた雪をはらってあげていた。皆それぞれ冬を堪能しているようだ。
 ああ、冬の景趣を購入して正解だった。季節を感じるということは、とても大切なことなのだと一つ覚えた。
 感慨深く皆様の楽しむ姿に感激しながら雪だるまを作っていたところ、縁側より三日月様に呼ばれた。雪の上を走ることはできず大股で三日月様の元へ行くと、両手で頬を包み込まれる。

「ああ、頬も鼻も冷えきって真っ赤ではないか。そろそろ中へ上がったらどうだ? 風邪をひいたらどうする」

「いえ、ちょうど雪だるまを作っている最中でして」

「雪遊びばかりしていては凍えてしまうぞ。温かい茶でも呑んで芯から温めんと」

「あとでたくさん温まりますので大丈夫ですよ。三日月様はご本体を……今から手合わせですか?」

「小狐丸がうるさくて敵わんのでな。今朝、主に毛を梳いてもらえず機嫌が悪いらしい。少々相手をしてやるさ」

「あああ、申し訳ありません……!」

「よいよい。主、ゆきだるまとやらを作り終えたら中へ上がるのだぞ。いいな?」

「はい、わかりました」

 三日月様へ頭を下げ、作りかけの雪だるまの元へ戻った。さて、雪玉を転がしてうんと大きくしなければ。どうせ作るなら特大の雪だるまを作りたい。
 徐々に大きくなる雪玉をせっせと転がしていると、背中に何かを投げつけられた。何事かと振り向けば、雪をかき集めては「球」をにぎる薬研様を発見。おっと、何やら悪いお顔をされているではないか。
「大将、雪合戦やろうぜ」そう言いながら小さな雪球を次々に投げてくるもので、逃げた。相手が逃げると追いかけるのが性分らしく、すぐさま捕まってしまったのだが。
 次第に雪球を大量に抱えた皆様が集まり始め、気づけば大規模な雪合戦が開催されていた。清光様と安定様は何やら本気でぶつけ合いをしているように見えるが大丈夫だろうか。
 すると、「失礼します」との声が聞こえた直後、またしても背後より雪球を当てられた。今の可憐なお声、まさか。恐る恐る背後を確認すると、予想通り苦笑する一期一振様がいらっしゃった。

「主、背中ががら空きですぞ」

「いやいや、粟田口の皆様は背後がお好きですね? 心臓に悪いのでやめてもらえます?」

「ああ、申し訳ございません、主の無防備な背中を見ていると妙に投げつけたくなりまして」

 爽やかな笑顔でサディスティックな発言は遠慮願いたい。
 一歩一歩近付いてくる一期一振様に後退りをすると、次は脇腹に雪球を投げつけられた。そこには、にやりと微笑み雪球を両手に持つ後藤様が。よくよく周囲を見渡すと薬研様はもちろんのこと、鯰尾様、乱様、博多様……。おかしい、粟田口派の皆様に囲まれているではないか。
 じりじりと雪球をかざし近付いてくるもので、私が半泣きで逃げ惑うと、飛びつくように抱きつかれ雪の上へと倒れこんでしまった。

「大将びびりすぎだろ!? あははは!」

「あるじさん可愛いんだから~!」

「こら後藤、乱。大将の胸に顔を埋めるな」

「自分もしたいくせに、何言ってんの薬研兄」

 乱様の発言に薬研様はひくりと頬を引きつらせ、後藤様と乱様の上へ倒れこんだ。今の状況を整理しよう。私が雪の上へと倒れ、その上に後藤様、乱様、薬研様が覆いかぶさっている状態である。お、重い。
 次第に呼吸が苦しくなり近くで微笑ましく眺められていた一期一振様に助けを求めた。しかし一期一振様は、主と遊んでいただけて良かったね、などとのほほんと声をかけては笑顔を見せるばかり。いくら呼びかけても返事をしてくださらない。むしろ、もう少し中央に寄ってくれるか、と薬研様達に指示を出しながら腕まくりをし始めた。なんだろう、この展開は。まあ、いくらなんでも一期一振様が覆いかぶさってくることはないだろうと考えていたのも束の間。

「では、私も」

「へ、いやいやいやそれはさすがに!」

「はは、冗談です」

「そうですよね、はあ、よかった」

「と見せかけて」

「ぎゃああああああ重いいいいいいい!」

 一期一振様が雪に倒れこむ四人をまるごと抱きしめるように覆いかぶさってきたもので血を吐きそうになった。粟田口恐ろしや……。
 私が青ざめているのに対し、短刀の皆様は兄である一期一振様とのひとときを思いきり堪能されているようで、笑顔が輝いている。

 ――そのときだった。

 庭一面の空気が、変わった。
 粟田口派の皆様の重みで息絶え絶えになっていたのも確かだが、それ以上に息が詰まりそうな何かが空気に紛れ込んだ気がした。
 そんな中、雪の上をざくざくと素足のまま歩み寄ってくるのは三日月様だ。一期一振様は急いで上体を起こし三日月様に謝罪と事の成り行きを話し始めた。薬研様、後藤様、乱様も、次々に三日月様へ謝罪を述べる。何故三日月様に謝罪を……?
 不思議に思っていると、三日月様は雪の上へ寝転がっている私を抱き上げ、細めた目でこちらを見てきた。瞳の色が妙に冷たい。

「主、ゆきだるまとやらを作り終えたら中へ上がるよう約束したはずだが」

「……あ、ごめんなさい」

「ですから三日月殿! 主を巻き込んだのは私でして」

「一期は黙っておれ。悪いのは主だ」

 瞳の中に浮かぶ月が赤く見えた。怒っている……? ただ雪遊びをしていただけだろう。いつもなら穏やかに笑い飛ばしてくれそうなものを。皆様がそれぞれ冬を楽しんでいたというのに、三日月様のご立腹な登場により静まり返ってしまったではないか。
 我慢ならず、聞いてみた。何故そこまで機嫌を損ねる必要があるのかと。だが、答えてはくれなかった。ただ無言で私を部屋へと上げ、冷えきった足に毛布をかけ、雪で濡れた髪を丁寧に拭いてくださった。
 その間も話しかけてはみたが、一言さえも返してくれず。胸に手を当て訴えた。せめて、返事はしてほしい、無視をされては心が痛むと。

「心が痛むなどと、それはこちらの台詞だな」

「……やっと話してくださった」

「はっはっは、俺が口を開いただけでそう目尻を垂れ下げるとは。すまんすまん。少々度が過ぎたか。だが主、何故俺がこのように機嫌を損ねているか、思い当たる節はないか?」

「私が長時間遊んでいたからでしょう……? でも、いつもなら遊びすぎるくらいでは怒らないのに、どうしてですか。寒い中、遊んでいたからですか?」

「それもあるが、主が粟田口らの下敷きになっていたことが少々癇に障ってな」

「……は?」

「短刀達はまあいい、目についたのは一期だ。何故押し倒されていた?」

「ああ、あれは皆様とただじゃれ合っていただけで」

「じゃれ合っていた?」

 途端、またしても三日月様の瞳が陰り、月に赤味が増した。言葉の選択を間違えたのではないだろうか。じゃれ合っていたなどと、もっと的確な言葉で表現するべきであった。
 言い直そうと必死に言葉を探っていると、ふいに赤い月が近付いてきた。後ろへのけぞるにも両肩を掴まれ、瞳を震わせることしかできない。
 お互いの唇が触れ合う一歩手前で三日月様はふと笑い、「まあ、こういうことだ」とつぶやきながら優しく抱きしめてくださった。

 これがきっかけだったのかもしれない。

 冬の景趣を購入した日の深夜、昼間まで遊び呆けていたこともあり仕事の進みが大幅に遅れてしまった。日付が変わった頃、ようやく時の政府へ提出する報告書が完成。筆を置き机前より這いずりながら布団へともぐりこむが、布団が冷たくなかなか寝付けずにいた。明日も明日で仕事がある為、寝不足になどなっていられないというのに。
 必死にまぶたを閉じ、寝る努力をしていたそのとき。障子戸の開く音が聞こえた。短刀の誰かが寒くて眠れず訪ねてきたのかと頭をよぎったが、そこには部屋へ入り障子戸を静かに閉める三日月様の背中があった。
 あわてて寝たふりをし、想定外の来訪者に高鳴る心臓の音が響かないよう両手で押さえ込む。何故このような深夜に私の部屋へ?
 三日月様は布団の隣へ腰を下ろし、枕から流れ落ちる私の髪をすくっては梳かし、すくっては梳かし、同じ行動を繰り返すばかり。そしてぽつりと、「夕餉の席で俺を避けていただろう、あのような悲しきことはやめてくれんか」そう声をかけられた。返事をするべきか戸惑っていれば、「まあ、寝ているか」といつも通りの穏やかな声が聞こえ、気まずさから寝たふりを貫き通しておいた。
 避けていたのは事実だが、でもそこは理解してほしい。昼間にあのようなことがあったというのに、平然と会話をするほど私は出来た人間じゃない。とはいえ、このままでは審神者として失格だ。どのような無理難題が降り注ごうと、そこは見て見ぬふりをせず解決していかなければ。重々、反省である。
 翌日は平然を装い三日月様と普段通りに接した。出陣前に笑顔を見せると、三日月様も美しい桜吹雪を散らせながら笑顔を見せてくださった。
 その日の深夜、またしても三日月様は部屋へと訪れた。昨夜と変わらず心臓が飛び跳ね急いで両手で押さえ込む。……何故だ、今日も無意識のうちに三日月様を避けていたのだろうか。
「なあ、主。出陣前に見せてくれた笑顔は造り物だったな。だが嬉しかったぞ」そうつぶやき、何度も何度も指先で髪を梳いてくださった。
 ばれていたか……って、そうじゃない。そのようなこと、何も深夜に部屋へ侵入して言わなくても良いのでは。意見しようとしたが、やめておいた。髪を梳いてくださる動作がとても気持ちよく、気づけば眠気に襲われ幸せな夢を見たような。
 だが、その翌日、更に翌々日と立て続けに一週間、三日月様は毎晩部屋を訪れることとなる。
 四日目までは髪を梳くだけで何もされなかったのだが、五日目、耳を触られた。六日目、頬を撫でられた。七日目、唇を指先でなぞられた。
 毎晩、部屋を訪れては必要以上に顔へ触れてくる、触れてくる、触れてくる。
 寝たふりをせずに意見しようと構えた日もあったが、結局足音が聞こえると寝たふりをしてしまい実行できなかった。また、誰かに現状を相談しようとも考えたが、皆様が信頼している三日月様のことをとやかく言える勇気もなく。
 そうこうしている間に、三日月様に対する小さな恐怖心が生まれ始めていた。
 一人思い悩む日々。恐怖心もだが、寝不足が続き仕事に支障が出ているのも事実。
 そこで行動に出た。万屋にて、とある札を購入したのだ。この札を障子戸に貼れば付喪神は結界に沮まれ部屋へ入ることができないと店主に教えていただき即購入である。本来の使い道は別にあるようだが、何であれ、この札さえあれば三日月様が部屋へ入ってくることはない。久々に熟睡ができる。
 夜、寝る前に札をセロハンテープで障子戸の木枠へ貼り付けた。貼り付ける術がセロハンテープしかなかったのでどうしようもない。まさかセロハンテープを使ったことで札の威力が落ちることも……それは無いと願おう。どうか、どうか。
 深夜、静かな空間に足音が聞こえ、息を飲み込んだ。案の定、今夜も来たようだ。
 部屋の前で足音が止まったが障子戸は一向に開かず。どうやら札の威力は本物らしい。そしてセロハンテープも使用可。一つ覚えた。
 障子戸が開かないとなれば三日月様も諦めて自室へ戻ることだろう。さあ、寝よう。寝不足を解消しなくては。
 寝返りをうち障子戸へ背を向けたそのとき、「主、主、どうした、障子戸が開かん。まさか、閉じ込められているのか? 誰だ、申してみよ。必ず助けてやるぞ、大丈夫だ。……そうか、口を利くことも封じられているか。待っておれ、石切丸を呼んでくる。邪を断ち切ってくれようぞ」と低音の声で囁き部屋の前から遠のいて行った。
 ……え。閉じ込められている? 石切丸様? 邪を断ち切るって……いやいやいやいや、大事になっているではないか。
 布団から飛び出し、急いで札を剥がし枕の下へ隠した。障子戸が開けばこれ以上大事にはならないだろう。
 一分もせずして忙しない足音が聞こえてきたので、布団を頭までかぶり寝たふりをした。ああ、札を貼っていたことが見つかれば問われるに違いない。どうか見つかりませんように、見つかりませんように。

「おや、開いたね。本当に開かなかったのかい?」

「なんと奇怪な。ああ、主、無事か、主、主」

「三日月、主は寝ているよ。静かにしないと起きてしまう」

「構うものか。はあ、無事で何よりだ」

 頭までかぶっていた布団の上部をめくられ、髪を耳を頬を唇を幾度となく撫で回される始末である。そんな中で石切丸様の溜め息が聞こえ、「では、私は自室へ戻るね」そう言い残し部屋を後にした。
 結局は三日月様と二人きりだ。今夜も寝たふりを貫き通すつもりでいたのだが、ぽたりと冷たい雫が真上から落ちてきたことに驚き、ついにまぶたを開けてしまった。真正面に恐ろしいほど綺麗な瞳があり、月が揺れていた。滞り無くあふれる涙は雫となり、私の顔へと垂れ落ちてくる。

「……三日月様?」

「あいや、すまん、起きてしもうたか」

「な、泣いて……」

「はっはっは、何とも無いぞ、あくびだ。あくびで涙があふれてな」

 あくびでここまで大量の涙を流すなど聞いたことがない。言い訳をするならもう少しまともな言い訳をしてほしいものだ。布団から上体を起こし、三日月様の背中を擦って差し上げた。おいおいと無く姿はまるで子供である。
 涙の理由を聞くと、言いたくないと首を横に振るばかりで話しは進まず。次第に涙を流しながらこくりこくりと頭を揺らし始めたので、私の布団へと寝かせ、自分は畳に布団代わりとして座布団を敷き並べ就寝した。予想外の展開に溜め息が止まらない。
 翌日は言わずもがな寝不足である。そのせいか、座布団の上で寝たはずなのに、布団の中で三日月様に抱きしめられていたことに気づいたのは目覚めて数分後であった。なんでも、私の身体が冷えきっていたらしく急いで布団の中へ引き込んだのだとか。

「ああ、主、大変だ。目が開けづらい」

「寝る前にあれだけ泣けば目も腫れますよ」

「そういうものなのか?」

「そういうものです」

「そうかそうか。……いやあ目は腫れてしもうたが、それと引き換えに、こうして主を腕の中に収めることができた。安心するものだな。これほど心落ち着く日はめったに無いことだ」

 布団の中で抱きしめられるなど恋人同士がする行為である。おそらく三日月様はそのようなことは考えずに行動されているのだろうけれど。この現場を皆様に目撃されたらどのような目で見られることか。
 今が話を切り出すいい機会なのかもしれない。三日月様の腕の中から抜け出し、畳の上へ正座した。
 近頃三日月様が夜な夜な部屋に侵入していることには気付いていたと白状し、今後そういう怪しげな行動は遠慮いただきたいと指摘した。
 私の発言に対し、三日月様は笑みを浮かべながら上体を起こした。正面へ座り、やはり狸寝入りをしていたか、と余裕に満ちた声でつぶやく。

「今夜から主の部屋で寝るとしよう」

「あの、話し聞いてましたか? ですから今後は」

「知らぬ」

「いやいや、私このままだと寝不足でどうにかなりますよ。本当にやめてください」

「悪いが聞き入れられん」

「聞き入れてください」

「ならん」

「ならんって……。お願いですから、夜はご自身の部屋で寝てください」

 次第に三日月様の表情から笑みが消え、少々怒りに満ちた目でこちらを睨みつけてきた。それだけで全身が圧迫される感覚に襲われ怯みそうになるが、ここは何としても耐えなければ。三日月様の意思を受け入れてしまうと後々厄介でしかない。それぞれ刀剣の皆様に部屋を割り当てているのだから、自身の部屋で就寝するのは当然だ。三日月様だけが審神者の部屋で就寝するなど、目に見える特別扱いはご法度である。
 私の意見をそのまま伝えると、畳へ視線を落とし胸に手を添えて、苦しい、苦しい、とつぶやき始めた。

「主は残酷だ。俺がこのように苦しんでいるとも知らず、冷たい言葉を浴びせてくる」

「冷たい言葉なんて何一つ言っていないはずですが。当然のことを言っているだけです」

「まこと、冷たい……。苦しい、苦しい、ああ、苦しい」

「胸が苦しいのですか?」

「そうだ、苦しくてたまらん」

「冷たい水でも飲みますか? 落ち着くかもしれませんよ」

「……冷たい水でこの苦しみが治まるなどと、よく言えたものだ」

 すると、胸に添えていた手を下ろし、私の手の甲へと触れてきた。指先でスッと撫でられ、「俺に触れられるのは嫌か?」そう訊ねられたので、そんなことはないと首を横に振る。
 次に片方の手を両の手で包み込まれた。三日月様は首を傾げ、私の返事を待っている。手を包み込まれるくらいなら、そこまで嫌ではない。先ほどと同じく首を横に振った。私の反応に三日月様は微笑み、そうかそうか、と明るい声を弾ませる。
 穏やかな雰囲気に少々強張らせていた肩を撫で下ろした。よかった、笑顔を見せてくださった。
 とはいえ、二人きりの部屋で手を触れられるなど気恥ずかしいことこの上ない。包まれている手をそっと引き抜こうとすれば、三日月様の手に力が加わり、そのまま手首を掴まれ抱き寄せられた。
「これはどうだ」と耳元で囁かれ、瞬時に胸板を押しのけ、腕の中から這い出た。

「あの、からかうのはやめていただけますか」

「先刻抱き合って寝ていたというのに」

「何度もされては心臓に悪いです、やめてください」

「心臓に悪いと申すか。なるほど、少なからず俺を意識していると見た」

「意識……?」

「主よ、何も急くことはない。ゆるりと俺を受け入れてくれればよいのだ」

「三日月様を?」

「ああ、俺はいつでもよいぞ。まずは、そうだな、手を繋いで散歩でもするか」

 話が飛躍しすぎている為、何が何やら。何故に三日月様と手を繋いで散歩をしなければならないのだ。それよりも寝不足のせいでたまりつつある審神者としての仕事に時間を注ぎ込みたいのだが。
 第一、恐ろしいほどまでに美しい男性と並んで歩くだなんて……。大変申し訳ないが、それこそ嫌である。
 三日月様が散歩へ行こうと手を差し伸べてきたので、その手は取らず、それとなく自分の意思を伝えることにした。私は三日月様と手を繋いで歩けるほど心の強い人間ではありません、と。

「心の強い人間とはなんだ? 主の言い分はよくわからんな」

「三日月様は、その……とても美しいので、私が手を繋いで隣を歩くなど笑い者にされるだけです」

「あなや、これは驚いた。なんという愚かな発言だ」

「私は真面目に言っているのです」

「……ふむ、俺が美しいのがいけないと、そういうことか。あい分かった」

 一つずつ隔たりを崩していかねばな、そう告げ私の頭を二度撫でるなり部屋を後にした。
 ……三日月様は審神者である私を何と思われているのだろうか。審神者というよりも、ただ我武者羅に頑張っている人間と思われていそうな気がするのだが。あまりに頼りないばかりに、気苦労をかけているのかもしれない。
 夜な夜な部屋に忍びこむ行為だが、以前に火傷事件のことも踏まえ、側にいることで守ってやれると優しい三日月様なら考えもつくだろう。散歩への誘いも、何らかの思惑があってのことではないだろうか。
 自分が情けない。刀剣である三日月様に気遣わせてしまうなどと。しっかりしなければ。

 ――そう勝手に解釈をしていた。

 その日、第一部隊として出陣した三日月様が中傷となり帰還された。
 鶴丸様に肩を借りなければ歩くのも辛そうな傷を負っていたもので、即座に手入れ部屋へと入ることになったのだが。いざ手入れを始めようとすれば、私の手を押しのけながら綺麗に整頓されていた資源を撒き散らし、「手入れはいらん」と断固拒否。
 刀剣の皆様は手入れでしか傷を治すことはできない。自然回復をすることはない。何を頑なに……。

「主、これでどうだ、俺は傷を負って美しくないぞ。今なら手を繋いで隣を歩いてくれるか?」

「はい?」

「今朝、申したではないか。俺が美しすぎて隣を歩けないと」

「まさかとは思いますが、三日月様、わざと傷を負ったのですか?」

「はっはっは、そこまで言わせるな」

 これで俺は主の隣にいられると痛みに顔を歪めながら告げ、這いずるようにこちらへと近づき、正座する私の腰に両の腕を巻きつけた。
 三日月様を見下ろすと、うっとりとした表情で私を見上げる瞳と視線が合い、つい息を飲み込んでしまった。
 どれほど傷を負っていようが、美しさが変動することはまずない。むしろ痛みのせいか息を乱れさせ、色気を増しているように思う。
 静寂な空間に三日月様の呼吸音が嫌に溶け込み、腰に巻き付いている腕の力が徐々に強まってくる。妙な雰囲気にのみ込まれないよう、手入れをしましょうと説得し続けた。しかし三日月様は首を横に振るばかり。この状態が一時間近く続き、何度溜め息をこぼしたことか。
 美しい月を持つ瞳を軽く睨みつけ、いい加減にしてください、そう呆れる声で言ってやった。
 すると桜色をした唇が、「欲しい」と繰り返しつぶやき始めたのである。

「欲しくて、欲しくて、気が狂いそうだ。主が欲しい、火傷の痕だけでは足りぬ。主、なあ主、俺のものになれ。先刻も申したが急いてはおらん。少しずつでよい、今まで我慢してきた、これからも我慢するぞ。側にいてくれ。俺を顕現し心を与えてくれた主と一緒にいたいのだ。そしていつか、触れさせてくれ。触れたい、全てに触れたい。いつも懐に収めておきたい。頼む、頼む、頼む……ああ、欲しい、主が欲しい、欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい……少しだけなら、よいか、許してくれるか、許してくれ」

「三日月様? っうあ、ひい……!」

 様子が妙であり三日月様の肩に手を添えると、その手を掴まれ舌を這わされた。ぬめりとした舌の感触に憎悪が走り、つい悲鳴を上げてしまった。悲鳴を上げたことが癇に障ったのか、目を細め、こちらを見つめてくる。その表情は冷たく、瞳の月が赤く染まっていた。突如恐怖心で満たされ助けを呼ぼうとしたのだが、口元を手で塞がれ、力任せに押し倒された。中傷でありながら力は全く衰えていない。三日月様の身体は今も滞り無くあふれる血のせいで、とても鉄臭かった。

「すまんな、俺が恐ろしいだろう」

「そう思うのならやめてください、ほら、早く手入れをしましょう、ね?」

「落ち着いた態度をしながら、内心恐怖に怯えているなあ。表情がこわばっているぞ、唇もこんなに震わせて、ああ、どこまでも愛おしい」

 頭をふわりふわりと撫でながら頬から耳にかけて舌を這わせてくる。次第に耳を集中的に舐められ、三日月様の唾液で十分に湿ったところ、軽く噛まれた。強弱をつけながら歯を立ててくるもので、そのたびに肩が飛び上がってしまう。

「お願いやめて、お願い」

「そう嫌がるな。おお、おお、涙があふれてきたか。よしよし、いただくぞ」

「ひい、やだ、舐めないで!」

 組み敷かれる中、思うように声も出せず、ただただ心中で叫んだ。誰か助けてくれと。手入れの最中は意識を集中しなければならないことから、刀剣の皆様が廊下側から障子戸を開けることはない。それでも、現状願わずにはいられない。怖い、三日月様が怖い。助けて、助けて。
 あふれる涙を三日月様は美味しそうに幾度となく舐めては吸い上げ、次第に肌の感触が麻痺し始めた。何故このようなことになってしまったのか。

「すまん、手入れ中悪いが失礼するぜ。聞いてくれ、一大事なんだ! 俺の鼻眼鏡が無くな……」

「……鶴か」

「おいおい、なんだこの状況は」

 予想外なことが起きた。勢いよく障子戸が開かれ鶴丸様が手入れ部屋へと姿を現したのだ。三日月様に組み敷かれ泣いている私を見るなり、鶴丸様は目を見開き凝視。そして何一つ躊躇することなくこちらへと歩み寄り、三日月様の肩を鷲掴んでは私から引き剥がした。
 低音の声で、度が過ぎるぜ、そう三日月様に告げ、お二人は近距離で睨み合っている。その間に三日月様の死角から、早く手入れ部屋を出ろと言わんばかりに鶴丸様が何度も廊下を指差すもので、指示通り足をもつれさせながら手入れ部屋を飛び出た。途中、三日月様に首根っこを掴まれそうになったが、鶴丸様がその手を払いどけ、逃れられることに成功。
 取り乱しながら廊下をひたすら直進していると、前方に石切丸様を見つけ、大声で呼んだ。事情を話せば、石切丸様は即座に手入れ部屋へと向かい対応してくださった。
 二分後にはこんのすけも姿を現し、何故か手入れ部屋が封じられた。廊下で呆然としていれば、騒然とする本丸に違和感を感じた皆様が私の元へと駆けつけ、驚愕した表情を浮かべる。特に一期一振様は涙ぐみ、固く握りしめた拳を震わせていた。

 深夜、こんのすけより報告を受けた。
「我が本丸の三日月宗近は精神が大変乱れておいでです。今までは自我で抑えていたようですが、とあることが引き金となりこのようなことに……。本来ならば刀解を免れない事態ですが、稀少の高い分霊である為、時の政府が直々に精神の安定を目指し治療をすることとなりました。審神者様、三日月宗近の精神が一刻も早く安静な状態になるよう日々お祈りください」
 淡々と話すこんのすけだが、どことなく悲しそうである。ふと暖かい日差しが注ぐ縁側で、三日月様の膝上に乗り、頭を撫でられていたこんのすけの姿を思い出した。ああ、と辛い声がこぼれてしまう。
 翌朝、刀剣の皆様に三日月様の現状を伝えた。誰も彼も沈んだ表情を浮かべ、大粒の涙をこぼす者さえいた。……今日は出陣できそうにもない。
 朝餉を終え自室で一人になると、これみよがしに三日月様の穏やかな笑顔が脳裏に浮かんだ。畑仕事を頑張っている姿、団子を頬張り桜吹雪を舞い散らせる姿、ご自身が中傷であろうと仲間に軽傷の者がいればそちらを優先してくれと言い張る姿、一期一振様に叱られ気を落としていた短刀の皆様にこっそりと色とりどりの飴玉を手渡す姿。思い出せば思い出すほど目頭が燃えるように熱くなった。
 昨夜、こんのすけから報告を受けた後は現実味がなく、朝餉の席に三日月様がいらっしゃるのではないかと甘い考えをしていたのだが。実際、朝餉の席に三日月様の姿はなく、途端、現実を思い知らされた。

 一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月、四ヶ月……。
 日々、こんのすけへ問いかけた。三日月様はいつ本丸へ戻ってくるのかと。だが、こんのすけも情報をつかめず耳を垂れ下げるばかり。その度に謝罪した。私が問いかける度に辛い気持ちへさせてしまうのだろうが、聞かずにはいられないのだ。どうか許してほしい。
 あの穏やかな笑顔が見たい。今すぐ見たい。三日月様、一刻も早く戻ってきてください。

 皆の思いが通じたのが、三日月様は半年後に本丸へ戻られた。
 戻られたのだが、感情を消されたかのように顔から表情が消えていた。ただただ無表情。何をしても無表情。微笑むこともなければ、悲しむこともない。
 本当に我が本丸の三日月様なのかと疑ったが、右足の火傷痕が本人だと物語っていた。時の政府は精神の安定を目指し治療をすると言っていたが、安定どころか感情を押し殺したのではないだろうか。一体彼に何をしたのだ。
 このままではいけない。無表情の三日月様など、誰も望んでいない。時間はかかるかもしれないが、笑顔を取り戻してみせる。必ず。
 時間が許す限り、部屋に篭もる三日月様を外へ連れ出し、明るく元気に話しかけた。鶯丸様に協力していただき縁側で茶を呑んでいるところ、団子の差し入れをした。時には畑仕事を手伝っていただいたり、馬の世話をまかせてみたり。あの時の日常を取り戻したい一心で頑張った。
 しかし、三日月様は表情を一切出さず。それどころか一言さえも発してくれない。
 そんなある日、自室で落胆しながら洗濯物を片付けていたところ、ある衣服に目が止まった。近頃、まったく着ていなかったスカート。そういえばいつの日か、三日月様がスカート姿を見せてくれと仰っていたような。
 浴衣を脱ぎスカートを履いてみた。足がむき出しになり少々気恥ずかしいが、もしかしたら三日月様が何らかの反応を見せてくれるかもしれない。微かな希望を持ち、夕餉の席へと向かった。
 皆様は私のスカート姿を見るなり、おお、と歓喜の声を上げ、日本号様はどこからか高級そうな酒瓶を持ち出す始末である。大袈裟すぎやしないか。
 熱い視線をそそくさと交わしながら、三日月様の隣へ行き腰を下ろした。以前にスカート姿を見せてくれと仰っていましたよね、そう声をかけると、三日月様の瞳が揺れた。間違いなく、揺れた。

「……る、じ」

「あ、あ、今、喋って」

「っ……ある、じ、欲しい……」

「……え」

 三日月様は顔をうつむかせ、ご自身の胸を鷲掴み苦しみ始めた。何故だ。以前の記憶に触れてはいけなかったのだろうか。どう対応すればいいか戸惑っていると、一期一振様が三日月様へ近付き、そっと耳打ちされた。何をこそこそと……。
 一期一振様の行動を不審に思いつつ三日月様の心配をしていると、突如として背後から目を隠され、香のような何かを吸わされた。
 そこで、意識が落ちた。

 夢を見た。それはそれはひどい夢だった。
 私に覆いかぶさっているのは三日月様で、口から大量の血液と唾液を交互に注がれている。下半身も何かをねじ込まれた感覚がしたような。ただ、はっきりとは分からない。痛みも苦しみもない。ああ、声は聞こえてくる。三日月様の声だ。謝罪している。すまない、すまない、と。誰に? 私に? 謝罪などいらない。笑顔を見せてください。

 目が覚めた時は、自室にいた。
 障子戸が開かれており、春の景趣である桜吹雪がひらひらと舞い込んできている。身体が重く、上体を起こすのも一苦労であったが、何とか自力で縁側まで来れた。

「おお、目を覚ましたか」

「……三日月様?」

「どうした、腑抜けた顔をして。悪い夢でも見たのか? どれ、なぐさめてやろう」

 よしよし、と頭を撫でてくる三日月様は、ふんわりと微笑みを浮かべている。久々に見る笑顔に、心から嬉しさが込み上げた。そう、この笑顔を見たかったのだ。
 そこへたくさんの足音が近付いてくるので何事かと振り返れば、粟田口派の皆様が廊下を駆け抜け私へと飛びついてくる。
「やっと目を覚まされた、よかった、よかった」そう口々に歓喜の声を上げ、涙を流された。その後、本丸中の皆様が集まり始め、次郎様など隣で酒を飲み始める展開である。
 私はどれだけ長い間寝ていたのだろうか。

「はっはっは、賑やかなことはいいことだな」

「そうですね。それに三日月様に笑顔が戻って安心しました」

「すまんな、心配をかけた」

「いいえ、私が不甲斐ないばかりに」

「何を申すか。全てが愛おしいというのに」

「愛おしい……ですか?」

「ああ、ゆるりと共に過ごそう。またすかーと姿も見せてくれ。なあ、






神の欲へ触れたとき





-報告書-

西暦XXXX年XX月XX日
審神者(女性) 行方不明
<調査結果>
・本丸中の刀剣男士全員が消失
・本丸中の神気の乱れ
・中でも三日月宗近の神気は異常値を検知
・審神者の部屋より刀剣男士の血液と精液を確認
・一期一振の部屋より審神者の本名が記載された書類を発見

以上の調査結果より、神隠しと想定される





終わり





ご覧いただきまして、ありがとうございました。