本丸での生活が始まり、一週間が経った頃。

 刀剣の付喪神である彼らと歴史修正主義者を倒し、資源を集め、傷ついた彼らの手入れを繰り返す日々。
 本丸では井戸の近くに良い土をみつけ、その場を畑とし耕し始めた。畑仕事はなかなかの重労働だが、ぽつんと芽が出た箇所を必死に凝視していた山姥切を見つけ、畑を耕し始めて良かったと心底感じた。
 また、洗濯をしていると短刀たちの元気な声が聞こえてきては、必ずや私の居場所を捜し当て手伝いをしてくれるのだ。昨日も、小夜が無言で私の隣に座り、一生懸命に何枚もの血で汚れた手ぬぐいを洗ってくれた。小夜は常に無表情だが、とても心の優しい男の子である。
 付喪神である彼らの優しさに触れながらの生活は、なかなかに充実した毎日だと思う。しかし、いまだに現世へ帰る術は見つからず、こちらの世界の審神者として日々を過ごさざる得ない状況とも言える。
 そのようなことを考えながら台所で夕餉に使った食器を片付けていると、こんのすけが私の肩へとよじ登ってきた。ああ、頬に当たるふわふわの毛並みがくすぐったい。
 
「主さま、一つ質問に答えてください。いつになれば鳥羽から先へ進むのですか?」

「進みません。進むと敵も強くなると聞いたので、進みません、絶対に進みません」

「はあ、そのようなことでは刀剣男士である彼らが一向に強くなりませんよ。いざとなれば負けてしまう可能性もあります」

「そのときは私が守るのでご心配なくです」

「審神者である主さまが彼らを守るなど、笑えない冗談ですね。主さまは少し考え方がおかしいです。まったく、いいですか! ちょっとそこへお座りなさいませ!」

 私は私のやり方を貫き通しているだけだというのに、こんのすけはいつも説教をしてくる。一週間経った今も鳥羽に留まり続けているのはまずいのだろうか。だが、鳥羽より先へ進み、もし心優しい彼らが重傷でも負うことになれば一大事だ。……何を言われても進まない、拒否だ。
 説教が延々と続き、明日こそ先へ進むよう説得をさせられるが、返事はしなかった。仕方がないだろう、嫌なものは嫌なのだ。だが、こんのすけも簡単には引いてくれず、恐ろしい一言を突きつけてきた。
 彼らを強く育てなければいつ破壊されてもおかしくないですよ、と。
 破壊とは何か問うてみれば、人間でいう死に該当すると教えられた。

「刀剣の付喪神にも最期のときはあります、お忘れなきよう」

「なにそれ、破壊だとか死だとか。そういう怖い言葉をちらつかせて脅そうとしてるの見え見えですよ」

「脅しなどではありませぬ。事実です。主さまがあまりにも無知なゆえ、教えて差し上げたまでのこと」

「なら、やっぱりこれ以上先には進みません。進まなければ強敵に傷付けられることもないでしょう」

「考えが甘い。近頃は検非違使の存在も見かけられているというのに!」

「けびいし……?」

 こんのすけがまたしても知らない言葉を出してきたことに腹が立ち、言い争いが激化したのは言うまでもない。短刀たちが心配の色を浮かべた表情でこちらを見つめてくる姿を目の端でとらえ、何が何でもあなたたちを危険な場所へ行かせはしない、と余計に気が高まり食って掛かった。
 最終的には、「もう出陣しない! ずっと本丸にいます!」そう大声で言い切り、台所から立ち去った。出陣しないとなれば皆が傷つくこともない。はたまた手入れをする必要もなくなる。ようするに資源なんてものは必要ない。
 どすどすと廊下中に響くような足音を立て、今たまっている資源を全て鍛刀部屋へと運び、刀工へ渡した。

「あの、こんなに大量の資源……全て鍛刀へ?」

「違います。刀工さん、あなたへプレゼントです。もう必要なくなりましたので」

「ぷれぜんととは」

「贈り物です」

「へ!? いやいや、急に何をおっしゃっるのですか!? いただけません!」

「いただいてください! お願いします! それでは!」

 返却される前にさっさと逃げた。これでいい。私は皆を守ったのだ、この行動は間違っていない。
 台所へ戻ると、そこにこんのすけはおらず、薬研と五虎退が食器の片付けをちょうど終えたところであった。私が放り出した片付けを二人が引き継いてくれたようだ。二人には十分に謝罪をした。戦で疲れているところに片付けをさせてしまうなど、私は何をしているのだ。せめて片付けを終わらせてから台所を飛び出すべきだった、そう反省をし顔をうつむかせていると、薬研が下から可愛らしくのぞきこんできた。
「俺たちを大切に想ってくれてありがとな、大将」そう目を細めた柔らかい笑顔で礼を言われ、唖然である。何故礼を言われたのか良く理解ができず、念の為もう一度頭を下げておいた。

 自室へ戻ると、こんのすけが扉前に座っていた。少々気まずいが目を合わせず障子戸を開け、中へと入る。すると、部屋中に見たこともない大量の書類が積み重ねられていて目を見開いてしまう。素早く振り返るが、そこにこんのすけはおらず、一枚の半紙が置かれていた。
 「出陣をしないのでしたら書類整理をお願いします。判子を押すだけの簡単な作業ゆえ、三日で仕上げてください」そう書かれていた。文末には愛らしい足あとがスタンプのように押されているが、まったく可愛くない。むしろ憎たらしい。あのぬいぐるみめ……。
 書類を蹴飛ばすつもりで足を前へ出したが、寸前で止めた。
 ここで指示されたことを完璧にやり遂げたら、こんのすけはどのような反応をするだろうか。もしかすると私の意見を聞いてもらえる可能性もあるのでは。単純ではあるが、このような方法でしか自分の意思を主張できないのも事実。一分悩んだ結果、こんのすけの指示に従うことにした。
 やってやる、三日後には全て終わらせて笑顔で書類を渡してやる。そして本気で皆を危険な目に遭わせたくないと考えている気持ちを理解してもらう。
 そうと決まればさっそく取り掛からなければ。あらかじめ用意されていた判子を指定されている箇所に押していく単純作業。……情けのないことに、五十枚を押し終えたところで腕が痛くなってきた。五十枚でこの調子だと先が思いやられる。書類は部屋一面に置かれているというのに。いいや、弱音を吐いていても仕方がない。やり遂げる、絶対にやり遂げる。
 無心で判子を押し続けること四時間。腕の痛みが麻痺してきた頃のこと。
 突然、刀工が部屋へと飛び込んでくるなり、鍛刀部屋へ来るよう叫んできた。なんでも、先ほど私が渡した資源で鍛刀をしたら、とても素晴らしい名刀を呼び寄せた、とのこと。やはり刀工、資源は鍛刀へと注ぎ込むのが本分らしい。ただ、やはり主様は鍛刀に運を使いすぎです恐ろしや、とも言われ頬が引きつってしまう。

「刀工さん、申し訳ないのですが今仕事中ですので後ほど鍛刀部屋へ伺います」

「仕事など後回しで良いでしょう! ほら、行きますぞ、行きますぞ!」

「ええ!? あ、ちょっと、引っ張らないで!」

 小さな体であまりにも必死に私の服を引っ張ってくるもので、判子を置きしぶしぶ立ち上がった。鍛刀部屋へ行くと、三日月の時と同じように一振りの刀が置かれていた。刀工はせっせと刀を取りに走り、私へと手渡してくる。
 刀を受け取ると、いつも通り光が放たれ桜吹雪が舞うのだと予想していたのだが、何も置きず鍛刀部屋が静まり返ってしまう。刀工と顔を見合わせ首をかしげていると背後から、「わっ!」と声をかけられた。
 突然大きな声が鼓膜に響き、腰を抜かして床へと尻もちをついてしまう。

「はは! 惚れ惚れする驚きっぷりだな」

「あなたなに……うわ、まぶし!」

「俺は鶴丸国永だ。君は俺の主だな? よろしく頼むぜ」

 おそるおそる後ろを振り向くと、光と桜吹雪で視界がいっぱいになった。光と桜吹雪は本人の意思で操れるものなのだろうか。……謎だ。
 鶴丸と名乗った付喪神が腰を抜かした私に手を差し出してきたが、自力で立ち上がった。その態度に対しても、「こりゃあ驚いた!」などと声を上げたので、無邪気な子供のように思えた。
 改めて向かい合い、自分が審神者であることを伝えた。審神者という自覚はないが一応審神者らしいです、と。可笑しな自己紹介に鶴丸は笑い始めた。その笑顔はまるで女性のようで、不思議な感覚に陥る。おまけに、名前に鶴が含まれているだけあって服も白ければ肌も白い。私などより女子力がずっと高い。
 鶴丸を見ていると様々な点で悲しくなってきたので、そそくさと部屋を出ていこうとすると手首を掴まれた。見た目とは違い握力が強く、驚かされてしまう。

「おいおい、来たばかりの俺を置いてどこへ行くってんだ?」

「大変申し訳ないんですけど私仕事があって。……そうだ、誰かに本丸の案内をお願いしますので、ここで待っていてください」

 鶴丸の返答を聞かず鍛刀部屋を出た。こうは言ったものの誰か頼まれてくれる人はいるだろうか。夜も遅いし、幼い短刀たちは寝ていてもおかしくない時間だ。はあ、今この時間さえも早く判子を押したくてたまらないのだが、なんというか、上手くいかないものだ。

「どうした、溜め息などついて」

「あ、三日月さん。……はっ! いた! ちょうどいいところに!」

「ん?」

「先ほど本丸に鶴丸さんという付喪神がいらして」

「そ! 俺だ! よう三日月」

「おお、鶴ではないか。久しいな」

 突如として背後から現れた鶴丸に軽く悲鳴を上げてしまった。この人は、人の背後が好きなのだろうか。とてつもなく心臓に悪い。
 まあ、私の心臓はいいとして、どうやら三日月と鶴丸は顔見知りのようだ。何やら和やかに会話が始まってしまった。このまま立ち聞きするのも申し訳がないので、三日月に本丸の案内をお願いし、その場を離れた。
 さて、これで仕事が再開できる。何が何でも三日で全ての書類に判子を押し終えてみせる。
 その日は寝ずに判子を押し続けた。とはいえ、与えられた書類の五分の一を終えた程度で先は長い。外で小鳥が元気にさえずり始めると、山姥切が部屋の中へと入ってきた。

「……あんた、どうしたんだその顔。まさか、寝てないのか?」

「いやあ、仕事が終わらなくて。ごめんね、こんな顔で。まあ、顔なんて冷たい水で洗えばどうにかなるから。それより、そろそろ朝餉の時間だよね、すぐ作る」

 恐ろしく眠い。まぶたを閉じると一秒で眠れる自信がある。少し仮眠をとろうか考えたけれど、やめた。皆に食事を待たせるわけにはいかない。
 握りしめていた判子を置き、立ち上がった。一瞬足元がふらついたが自力でふんばる。三日後、こんのすけに認めてもらえるよう、今を頑張るしかない。
 まずは顔を洗うため水場へと向かったが、短刀たちで混み合っていたので井戸へと出向いた。そこで顔を何度も洗うが、まったく頭が冴えない。腹を決め、水を桶いっぱいに汲み上げ、頭からかぶった。すると、「なんてこった、こりゃあ驚いた!」と昨夜聞き覚えのあるセリフがどこからか聞こえてきたが無視しておいた。

「おいおい君、朝から冷たい水をかぶるなんて、まだ頭が寝てるんじゃないか?」

「頭が寝てるから覚ますためにかぶったんです。鶴丸さん、いつからそこにいたんですか」

「ついさっきだ。君をつけてきたからな」

「はあ、そうですか。つけてきたんですか」

「驚かせてやろうと企んでいたが、こっちが驚かされたって話だ。はは!」

 鶴丸さんは朝から元気ですね、そう返事をすると、何やら私の顔を見ずに胸の辺りを凝視するもので、視線の先を合わせてみれば……。水を浴びて透けた胸元があらわになっており、あわてて両腕を交差させ胸元を隠した。

「なんだなんだ、隠すのか?」

「こんの、変態鶴!」

「へえ、意外と可愛い反応するもんだな。それにしても人の姿ってのは最高だ、己が異性にこれほど反応するとは、いいねえ、発見だ」

 妙な発言をする鶴丸の腹部に一発パンチをお見舞いし、急いで自室へと戻った。着替えを済ませ台所へ行くと、なんと薬研と今剣が朝餉の準備を開始していたので、謝罪をしながらあわてて手を洗う。
 そのような私に、二人はとても優しかった。手探り状態だがやれることはやってみると面と向かって告げられ、寝不足や鶴丸の変態発言に固まっていた心が、これでもかというほどにほぐされた。向こうでゆっくりしているように言われたが、何もしない訳にはいかないので食器を運んだ。
 朝餉の場で、鶴丸の紹介をすると短刀たちは三日月の時と同様に目を輝かせた。二人目の太刀がきた! そう歓声を上げる。粟田口の短刀たちは、太刀となると大喜びするわけだが、何故そこまで喜ぶのか、こっそりと薬研に聞いてみた。喜ぶ理由は、とても微笑ましいものだった。粟田口には唯一一振の太刀が存在するらしい。薬研はその人物こそ粟田口の長兄だと嬉しそうに教えてくれた。

 食事を終え、早足で自室へと戻る。再び判子を握りしめ、仕事を再開した。
 しばらくすると今剣が部屋へと訪れ、一緒に畑を耕す誘いを受けたが、さすがに時間がなくなるので断った。またしばらくすると秋田と乱が部屋へと訪れ、一緒に遊ぼうと誘いを受けたが、これまた申し訳ないが断った。
 昼餉と夕餉は仕事に立て込んでいることを理解してくれた薬研が代わりに担当してくれることとなり、土下座をしたのは言うまでもない。部屋に立てこもる私を心配してか皆が顔を出してくれたが、寝不足の頭ではろくに話し相手すらつとまらず、逆に気遣わせてしまう展開となってしまった。
 その日も、寝ずに判子を押し続けた。寝不足がここまでくると逆に興奮状態となり目が冴えてくる不思議。これならばあと二日で何とかなりそうである。

 早くも二日目となり相変わらず判子を押し続けていると、小夜が部屋と訪れ、私の近くに可愛らしく正座をしこちらを見つめてきた。小夜は一言、「あなたは寝るべきだ」と真っ直ぐな瞳で私へとつぶやく。
 小夜の気持ちはとても嬉しい。しかし、ここで諦めるわけにはいかない。心優しい小夜のためにも、絶対に危険な戦は避けなければ。こんのすけに私の本気を認めさせるしかないのだ。
 小夜へは笑顔で礼を述べ、仕事が終わったらたくさん寝ると、そう伝えておいた。
 小夜が部屋を出て行くと、前田と平野が入れ替わるように入ってくる。本丸の近くに小さな花を見つけたので一緒に見に行きましょう、と二人は手を差し伸べてきた。この手を取りたいが、そうしてしまうと時間が……。二人に頭を下げ、仕事が終わってからにして欲しいと頼んだ。二人は残念そうな雰囲気であったが、潔く部屋から立ち去っていく。
 夜、夕餉の時刻を過ぎた頃、山姥切が盆を持ち部屋の中へと入ってきた。盆の上には小さなおにぎりが八つ。左から、今剣、小夜、粟田口の短刀たち全員がにぎってくれたのだと教えてくれた。
 皆、部屋にこもる私を心配していると山姥切は少し不機嫌な口調で告げてきた。せめて夜は寝て、食事には顔を出せと怒られてしまう。
 この不摂生な生活も明日一日で終わる。判子を押さなければならない書類もあと少しだ。山姥切にはあいまいな返事で誤魔化しつつ、その日も寝ずに判子を押し続けた。もちろん、短刀たちがにぎってくれたおにぎりを食べながら。……時折、押入れから鶴丸が顔出して驚かしてきたが無視しておいた。意外と慣れれば何とも無いことを覚えた。

 三日目、最終日。なんとか今日中に仕上げられそうだ。心は痛いが、皆の忠告を聞かず無理をしたかいがあったというもの。
 絶対にやり遂げてみせる。皆のためなら寝不足なんてものはどうにでもなる。
 今朝も山姥切が私の部屋へと訪れ、障子戸を開けるなりその場へ立ち止まった。

「あんた、まさか昨日も寝なかったのか」

「いや、その、ごめんごめん。あと少しだから、ついね」

「いい加減にしろ、昨夜寝ろと言ったはずだ。俺の言葉を受け止めてはくれないのか? ……俺が写しだからか?」

「ほら、寝てしまうと間に合わないから。本当にごめん。山姥切くんの言葉はちゃんと受け止めてるよ」

「実際受け止めてないだろ! ……くそ、もういい。勝手にしろ」

 乱暴に障子戸を閉め、山姥切は部屋を出て行ってしまった。不摂生な私を気遣い、何度も部屋を訪れてくれた山姥切の機嫌を損ねさせてしまうとは。後ほど改めて謝罪しなくては。
 心も身体も重いが、手を止めること無く判子を押し続けていると、薬研が部屋へ訪れた。
 机に向かって仕事熱心なのは良いが、せめて食事時だけでも顔を出して欲しい、と少々困った表情で告げてきた。昨夜、全く同じことを山姥切にも言われたわけだが。薬研には申し訳ないが、今日までは許して欲しい。これが終わればいつも通り料理もする、皆で食べて、畑仕事も手伝う。
 今日中に仕事を終わらせると約束をするが、薬研は信用してくれず、部屋に居座ってしまった。薬研がいることで短刀たちが部屋へ集結しつつあり、わいわいと遊び始めてしまう事態である。さすがに寝不足の頭では気が散ってしまい、部屋から出て行って欲しいと頼めば、一瞬にして部屋が静まり返った。五虎退など涙ぐんでしまい、駆け足で部屋から出て行ってしまう。全員が苦い表情を浮かべ、部屋から出て行ったのだが、薬研だけは、「大将、邪魔してすまねぇ」と謝罪を述べてきた。
 障子戸が静かに閉まった途端、罪悪感がこれでもかと湧き出て、湧き出て。ああ、私はなんてことを。

「今のは君が悪いな」

「……そんなの言われなくても分かってます」

「そうかそうか。不器用な性格は辛いな。で、いつになったら俺にかまってくれるんだ? そろそろ出陣もしてみたいんだが」

「出陣はしない。もう決めたことです」

「はあ? そりゃあ刀の俺たちに腐れって言ってるようなもんだぜ?」

 鶴丸の言葉に胸を貫かれた。私一人の意見を貫き通したところで、刀剣の皆が納得してくれなかったら……。妙に焦り始めてしまい、虫の居所が悪く、鶴丸を部屋から叩き出した。三日目の最終日だというのに、なんてことだ。でも、ここで手を止めてしまっては全てが無駄になる。最後までやり遂げると決めたのだ、あきらめてはいけない。
 心も身体も脱力してしまい、やるせない気持ちに支配されつつ、判子を握りしめた。
 朝餉、昼餉、夕餉、全てを見送り、あと一束で仕事が終わる、そのようなときに今まで顔を出さなかった人が部屋へと訪れた。

「主、少し良いか」

「……三日月さん?」

「何やら根を詰めているようだが、どうした」

「いえ、仕事が終わらなくて、ごめんなさい」

「なるほどな。よし、俺の肩をもんでくれ」

「はい、肩を……肩? いやいや、あとにしてください。もう少しで仕事が終わるので」

「今が良い。ほら、はよう」

 正直に言おう。このとき、こんのマイペーズじじいが! と本気で毒づいてしまった。もちろん心の中でだが。
 私の隣へと座りとても綺麗に微笑んでくる三日月だが、無理に立ち上がらせ部屋の外へ追い出し障子戸を閉めてやった。何もこのようなラストスパートをかけている今でなくても良いだろう。贅沢を言えば、三日間判子を押し続けている私だって誰かに肩をほぐしてほしいというのに。

 あと少しで終わる、あと少しで終わる、眠気に頭を振りながらそう念じていると、廊下を駆け回る足音が耳についた。障子に映る影は短刀たちである。ここで注意すると、またしても重い空気になってしまうので黙って見過ごすことにした。
 しかし、何度も何度も私の部屋前を足音を立てて通り過ぎていくもので、気になって仕方がない。時刻も時刻ゆえ、そろそろ寝る準備をするよう声をかけてみようか。段々と足音が近づいてきたのを合図に障子戸を開けると、そこには誰もいなかった。……今ちょうど足音が聞こえたはずなのに。
 一度障子戸を閉め、再び足音が聞こえてきたところで先ほどよりもタイミング良く開けた。しかし、やはり誰もいなかった。
 もしかすると、隠れているのだろうか。部屋を出て周囲を見渡すが、人影もなく足音どころか物音の一つさえしない。
 部屋へ戻ると、何故か机の前に鶴丸がおり、判子を刀の柄で叩きつぶしている最中であった。目の前で何が起こっているのか数秒理解できず、唖然としてしまう。

「待って、鶴丸さん、やめて、その判子はこんのすけから預かっているものなの!」

「んー、この判子さえつぶせば君は俺を見てくれるかと考えついたんだが、正解か?」

「そんな、ここまで頑張ってあと少しなのに、ひどい、なんてことを!」

「ひどいのは……君だろ、ほら、俺を見てくれないから、こんな……こんな姿に」

 鶴丸の周囲から黒いモヤが放たれ始め、やがて鶴丸を包み込んでしまう。次第に鶴丸は白から黒へと染まり、おぞましい笑顔を私へ向けてきた。
 恐怖から後退りをしていると、部屋の隅で、ざくざくと何かを切り刻む音が聞こえてきた。そこには鶴丸と同じく黒に染まった小夜が判子を押し終えた書類を短刀でめった刺しにしていた。私と目があった小夜は、ひどく暗い部屋の中で目だけをぎらつかせ、私へと一歩、一歩近づいてくる。鶴丸もこちらへ手を伸ばしてきたが、寸前で交わし廊下へと飛び出た。
 助けを求め何度もつまづきながら廊下を走っていると、背後より肩をつかまれた。息をつまらせつつ振り向くと、そこには薬研がいた。

「大将? どうしたんだ、息切らして」

「薬研くん! つ、鶴丸が、小夜が、黒に染まって」

「は?」

「どうしよう、あんな姿……私なにして」

「おいおい、落ち着け。とりあえず短刀の部屋へ来い。皆いるから大丈夫だ」

 薬研に手を引かれ、短刀たちの部屋へと誘導された。薬研はとても心強かった。取り乱す私を一生懸命に慰め、優しい言葉をかけてくれる。おかげで呼吸が落ち着いた。
 部屋へ着くと、中は灯りが消えており、何故か粟田口の短刀たちが正座をして横一列に並んでいた。異様な雰囲気を感じ取り中へ入ることを躊躇していると、薬研に背中を押されバランスが保てず畳に倒れこんでしまう。薬研も部屋の中へと入り、障子戸を静かに閉めた。摩擦で頬を擦りむいたのか、痛みが走った。そんな私へ手を差し伸べてきたのは乱だ。

「ねえ、主さま。ボクたちと遊ぼう、ねえ、遊ぼう?」

「うん……遊びたいけど、もう夜だし、寝る準備をした方が」

「平気だよ、ボクたち夜目がきくから真っ暗な夜でも十分遊べるんだ。主さまがどこへ行こうとすぐに見つけ出すから安心してね」

 気づいたときには短刀たちに囲まれていた。擦りむいた頬に触れてくる五虎退の手は氷のように冷たい。足に触れてくる秋田の手も、腕に触れてくる平野の手も、耳を撫でてくる薬研の手も、冷たい。どうしてこんなにも手が冷たいのか聞いてみると、「主様が僕達を放っておくから、心が凍えてしまって」そう答えが返ってきた。私がこの三日間仕事を優先したばかりに、皆、冷えきってしまったのだろうか。付喪神に無愛想な態度をとると、こういうことになると、そういうことなのか。
 どうすれば冷えきった心が暖かくなるか皆に聞き返すと、秋田は太ももに噛みついてきた。あまりの痛みに悲鳴を上げるが、短刀たちは暴れぬよう力まかせに押さえ込んでくる。戦場に立つだけあって、力が強い。ふりほどけない。その間に、秋田は太ももの肉を噛みちぎり、笑顔で飲み込んだ。
「ああ、主君はとてもあたたかいです。おひさまのようです。みんなも早く食べないと」そのような恐ろしいセリフをつぶやきながら。
 秋田の言葉を合図に、全員が私の身体中に噛みつき始めた。薬研は耳たぶを噛みちぎり、垂れる血を嬉しそうに浴びながらもう片方の耳にも触れてくる。平野には指を食いちぎられた。乱は服を捲し上げ腹の肉を自身の短刀で削り、口元へと持っていく。
 激痛と恐怖に侵され、声はほぼ出なかった。畳の上で必死に藻掻き、短刀たちにやめてくれと目で訴えかけることしかできない。
 五虎退の指先が眼球へ触れたとき、障子戸が開いた。月の逆光で顔は見えなかったが、大きな布を頭からかぶるシルエットで誰だかは一目瞭然である。
「お前ら……離れろ! なんてことしてくれたんだ!」そう叫んだのは山姥切だ。
 山姥切は私を素早く抱きかかえ部屋を出た。短刀たちは今にも飛びかかってきそうな雰囲気に見えたが、後は追ってこなかった。
 本丸の廊下を走りぬけるたび、振動が脳天まで響いた。その度に身体中から血が流れ出ていくのが感覚で分かる。呼吸も上手く出来ず、視界がぼやけてくる。
 本丸を出て、木の茂る草むらで山姥切は足を止めた。私を地へ下ろし、己のかぶっていた布であふれる血を拭い始める。

「おい、あんた、意識はあるか」

「……うん、ぎりぎり」

「ひどくやられたもんだな……血が、とまらない」

「山姥切くんやめて、布が汚れる」

「言ってる場合か。でも、ここは綺麗なままで良かった」

「綺麗って、どこがよ。全身……血だらけなのに」

「目だ。この純粋な目……この目が、欲しい」

 ふと頬に触れた指先は短刀たちの手と同じく氷のように冷たかった。指先は徐々に上へと移動し、目の周囲を回すように撫でてくる。少しずつ力が加わり、眼球をつまむように爪を立ててきた。
 山姥切の胸部を力の限り押すが、ビクともしない。ついには暴れる私の目尻に舌を這わせてきたので、先ほどの短刀たちの行動を思い返すと、眼球を食べようとしていることはすぐに分かった。
 山姥切の心も私のせいで冷えきってしまったのか。私は、皆を思って仕事をしていたのだが……空回りだったのだろうか。傷つく彼らを見たくないがために必死になっていたが、もっと大切にするべきことが近くにあったのだと思い知らされた。ご飯を食べるときくらい顔を出せばよかった、花を見に行こうと誘われたとき見に行けばよかった、夜は皆に心配をかけぬようたとえ少しでも眠ればよかった。
 ――全て、私が悪い。
 そのとき、頭の奥で、今剣の声がした。
 重いまぶたを開けると、目の前に書類があった。手には判子を握りしめている。周囲を見渡せば、そこは自室だった。
 小夜がめった刺しにしていた書類は何事も無く綺麗に積み重なっている。粟田口の短刀たちに襲われた耳や手足を確認するが、どこからも血は出ていない。
 ……今見ていたのは、夢だったのだろうか。やけに鮮明な記憶が残っているが。
 しばらく頭を抱え込んでいたが、居てもたっても居られず判子を投げ捨て部屋を飛び出た。向かうは皆の部屋だ。滑る廊下を走っていると、ふと声をかけられた。

「おや、主。このような夜更けに廊下を走るとは元気だな」

「三日月さん……あの、ちょっと、手! 手を貸して!」

「ん、俺の手がどうかしたか」

「……ああ、よかった、暖かい」

 三日月の手は、ほんのりと暖かかった。このぬくもりが心をじんわりと侵し、急に目頭が熱くなってしまう。だが、上を向き引っこめた。このようなところで泣いては駄目だ。
 私の不思議な行動に三日月は笑っていたが、「悪い夢でも見たのか?」と言い当てられ、心臓が飛び跳ねてしまう。更には、私の表情がどことなく寂しそうに見えると言い出し、そっと肩を抱き寄せられ頭を撫でてきた。この包容力、さすがはお爺ちゃんだ。年の功というやつか。
 包み込まれる安心感に、どのような夢を見たか、全て話した。
 悲惨な夢の話を聞き終えた三日月は、頬をすり寄せてきた。「それは難儀な夢であったな、かわいそうに」そう耳元でささやかれ、またしても頭を撫でられる。

「あるじさま? みかづきとなにをしているのですか?」

「あ、今剣くん!」

 三日月の背後よりひょっこりと顔を出した今剣は、可愛らしく首をかしげながら私を見てきた。
 あわてて三日月の腕の中から飛び出し、今剣の手を取った。その手は柔らかく、暖かかった。何より、あの悪夢より現実へ引き戻してきれたとき今剣の声が聞こえたのをはっきりと覚えている。思わず今剣を抱きしめ、何度も礼を述べた。そんな私の背を、今剣はぽんぽんと撫でてくれて、再び目頭が熱くなってしまう。
 そこへ近くの部屋の障子戸が開き、「あー!」と大きな声が響いた。今の声、間違いなく乱だ。
「今剣ずるい! 主さま! ボクも抱きしめてよ!」そう声を荒げながら背中に抱きついてくる乱。背中からじんわりと暖かい体温が伝わってきた。
 乱に続き次々に部屋から飛び出てくる短刀たちは思い思いに抱きついてくる。皆、皆、暖かい。薬研と小夜は気恥ずかしそうに立っていたが、私が笑顔で手招きをすると、その手をにぎってくれた。大丈夫、暖かい。
 押しつぶされそうになりながらも嬉しさのあまり、つい、我慢していた涙がほろりとこぼれてしまい、短刀たちに慰められる始末だ。なんと情けない審神者なのだろう。
 そこへ、鶴丸がやってきた。私が泣いていることに気づくと、白い布を差し出してきたので素直に受け取る。その際、一瞬だが触れた指先は、もちろん暖かかった。渡された布で涙を拭えば、「そりゃあ俺の使用済みのふんどしだぜ。驚いたか? なんてな! はは!」と言い出し、薬研は私からふんどしを取り上げ鶴丸の顔めがけて投げつけた。鶴丸の視界が奪われた隙に、乱は足元へと回り込み見事な蹴りをお見舞いした。なんというか、とても痛そうだ。
 次に駆けつけたのは山姥切だった。夜中に騒ぐなと、あからさまに不機嫌を出してきたが、そんな山姥切の手を遠慮無く掴む。……彼も、暖かかった。
 偶然にも本丸にいる全員が廊下に集結したので、仕事ばかりに集中しすぎて素っ気ない態度をしてしまったことに謝罪をし、今後のことについて意見を聞いてみた。私としては出陣などせず本丸で平和に過ごしてほしいのだが。
 私の意見に対し、粟田口の短刀たちは全員が出陣したいと意見が一致した。理由を聞くと、一昨日に話を聞いた粟田口唯一の太刀の話が持ち上がった。皆、口をそろえて、「兄に会いたい」と言う。会う為には危険を伴ってでも戦うしかないと。どうやら、短刀たちは覚悟を決めているらしい。
 同じく小夜、山姥切、鶴丸も己らが刀剣であることを主張し、出陣を薦めてくる。
 今剣と三日月に関しては、私の決断に従うとのことだ。
 考えるまでもない結果となった。私の意見を通したところで、それは単なる自己満足にしかならないと良く理解した。いくら皆を守る為とはいえ、今後は必ず意見を聞いてから行動しなければ。

 さて、明日から……。いいや、明日は十分に睡眠をとって、畑仕事もして、皆で花を見よう。
 明後日から出陣再開だ。





つづく