寝不足は恐ろしい魔物だ。

 審神者は一日に一度、報告書の提出を義務付けられている。
 日々の戦績、本丸内での活動、はたまた食事は何を食べたか、付喪神の生活態度に変化はないかなど、ちくいち時の政府へ報告しなければならないのだ。
 この厄介な報告書だが大体のことを簡素にまとめると、こんのすけから指摘が入り一から作り直しとなる。箇条書きではなく文章にしてくださいだの、意味が伝わってきませんだの、今までに何度作り直したことか。睡眠時間を削りながら作成した報告書に小言を言われるほど酷なものはない。よって、近頃は、自分でも驚くほど丁寧に作成している。まあ、丁寧に作成すればするほど睡眠時間は減っていくわけだが。

 虎の刻。現世の時刻でいうと午前四時頃のこと。
 重すぎるまぶたをこすりながら本日の報告書を作成し終え、机前から這うように布団へと移動し眠りについた。朝餉を作る時刻になるまで、あと三時間ほど。ここ数日、三時間以上の睡眠をとることがほぼ無い為、あまりの寝不足から寿命が縮まっている気さえする。いつまでこの生活が続くのやら……。
 とはいえ、今はこの忙しさはありがたい。余計な時間があると、現世へはどうすれば戻れるのか、友人と会うことはできるのか、今後どうなるのか、不安ばかりが頭の中で渦巻き苦しくなってくるのだ。考える時間など、作ってはいけない。
 ふわりふわりと意識が薄れていく中で、どこからか私を呼ぶ声が聞こえた。主、主、と。次第に身体がゆりかごのようにゆっさゆっさと揺さぶられ、赤子になった夢でも見ているのかと幸せな気持ちになっていたのも束の間。揺れはどんどん激しくなり、ついには目が覚めた。
 目が覚めた今も身体が揺さぶられていることに気付き、重いまぶたを薄っすら開くと、「おお、ようやく起きたか」そう頭上より声がした。その声が誰の声であるかすぐに分かり、開けたまぶたを速攻で閉じる。

「また寝るのか? 起きてくれ、主」

「……」

 何故こうも三日月は起床時間が早いのか。お年寄りは早起きだと聞いたことはあるが、早すぎやしないか。いったい何時に寝ているのだこの人は。申し訳ないが、ここで相手をしたら更に睡眠時間が減ってしまうので返事をするつもりはない。用なら後にしてください。はい、おやすみなさい。
 三日月に背を向け、再び眠りにつこうと体勢を整えると、またしても身体を揺さぶってきた。今ここで怒りながらに起きてしまっては三日月の思う壺だ。頑として一向に無視を貫き通した。
 しばらくすると、「なるほど、起きぬか。ならば俺にも考えがある」などと言い出し、揺さぶる手を止めた。布の擦れ合う音が止み、部屋に静けさが戻ってくる。
 何でもいいから早く部屋から出て行ってくれ、そう願っていると、ふいに耳に息を吹きかけられ全身が飛び跳ねた。加えて小さな悲鳴も上げてしまった。

「はっはっは、良い反応だ。ほら、はよう身体を起こせ」

「三日月さん……お願いだから用なら後にしてください。眠いの、ものすごく眠いの、ほんと眠いの」

「そうか、眠いのか。だが起きろ。俺の着替えを手伝ってくれ」

「着替え? そんなの自分でどうにかしてくださいよ」

「たまには俺の世話をしてくれても良いだろう。なあ、たのむ」

 たまには俺の世話? いいや、毎日しているはずだが。茶を飲みたいから湯を沸かしてくれと声をかけられ一日に何度も台所へ走ったり。近う寄れと私をからかってくるのはいいが近寄らずに無視していると自らこちらへ近寄ってくるなり袴を踏み、転び、額と腰の手入れをする羽目になったり。湯上がりに髪を乾かさず着流しの襟元を濡らしながら月見をしていたので、手ぬぐいで髪を拭き着流しを着替えさせてやったり。はたまた鶴丸の作った罠にまんまとはまっているところを助けだしてあげたり。
 まあ、鶴丸の罠は仕方ないが、三日月の究極なるマイペースに日々振り回されていると言い切れる。たまには世話をしてくれなどとよく言えたものだ。
 寝不足の目で三日月を睨むと、とても柔らかな笑顔で微笑み返され、つい目をそらしてしまった。彼は恐ろしいほどに美しく、見ていられない時がある。特に、瞳。
 布団を頭からかぶり、再び寝たふりをしてみたが、ついには布団を剥がされ三日月の部屋へと連行されてしまうのであった。己を爺だと言う割に、力が恐ろしいほどに強い。ああ、何かが矛盾している。
 部屋を出ると空はまだ暗く、小雨が降っていた。湿気を含んだ木板の床を三日月に手を引かれながら歩く。まぶたも、頭も、身体も、足取りまでも重く、自然と溜め息がこぼれた。そんな私に、「早起きは三文の徳と言ってな」と現世でも何度か聞いたことのあることわざを言い出す始末だ。寝不足に徳も何もあったもんじゃない。
 部屋へ着くと、三日月は寝間着である着流しを堂々と脱ぎ始めた。一応女性である私を前にして羞恥など知らぬといったこの態度。元が刀剣なだけに、性別などさほど気にしていないのかもしれないが。
 さて、着付けだ。三日月の着物はとにかくややこしい。まずこれ、次にこれ、その次はこれ、といったふうに一度や二度では覚えきれるものではない。その上、そこは強く縛ってくれ、そこは緩くでいい、などと注文も多い。
 ……はあ、さすがは天下五剣様だ。私などこんのすけからいただいた薄い甚兵衛二枚と、現世からこちらへ来たときに着ていた胸元にHAPPYと印字されているシャツを着回しているというのに。

「……はい、ここを結んで、終わり」

「おお、助かった。礼を言うぞ」

「それじゃあ私は部屋に戻って寝ます。おやすみなさい」

「あい待った。朝餉まで時間がある。茶に付き合ってくれ」

「だから、その朝餉の時間までに眠らないと私の身体も頭もどうにかなりそうなんですって」

「なんと、幼子のように頬をふくらませて可愛らしいことよ。さあ、湯を頼む」

 頼むから話を聞いてくれ……!
 悲しいことに三日月との会話はほぼ成立しない。それに頬をふくらませているのではなく、眠たくてこのようなひどい顔になっているのだ。
 こうなったら台所へ行くふりをして自室へ戻ろう。これ以上は付き合っていられない。
 三日月に適当な返事をし部屋を出たのだが、何を思ったのか後をついてきた。部屋で待っているように言うものの、私の足取りが危なっかしいので一緒に行くと言い出し、支離滅裂である。そう思うのなら解放してくれ……。ほぼ一睡もしないまま朝を迎えるなど辛いにもほどがある。
 仕方なく台所へ向かい、さっさと湯を沸かして三日月の部屋へと運んだ。三日月は茶葉と急須を用意し、丁寧な手つきで茶を淹れ始める。
 用意されていた座布団へ腰を下ろし、重い頭を上げることさえ気だるく、畳に視線を落とした。こぽこぽと湯の注がれる音を聞いているだけで眠気が増してくる。

「主よ、茶を淹れたぞ」

「……三日月さんごめんなさい、ちょっとここで横になってもいいですか。もう眠気が限界で」

「おや、それほどに眠いのなら早く申せばよいものを」

 三日月は冗談を言っているのだろうか。先ほどから何度も何度も眠いと言っているだろう。
 返事をせず座布団を枕にして横になった。今ならいつでもどこでもいくらでも眠れる状態だ。渋いお茶の香りが、いい具合に眠気へ溶けこんでくる。意識がふわりと遠ざかり始めると、三日月は頭を優しく撫でてきた。
「少し無茶を言い過ぎたな」そうつぶやく彼は私の頭を抱え、座布団を抜き取り、代わりに己の足を滑りこませた。三日月の太ももへ頭が沈み、なかなか心地が良い。

 花々が咲き誇る庭先で蝶々を追いかける夢を見ている最中のこと。
 またしても揺さぶられる感覚に意識が引き戻された。おまけに誰かの不機嫌そうな声が聞こえてくる。ああ、静かにして欲しい、まだ寝足りない。

「山姥切の、それほどまでに強く揺すらなくとも良いだろう。なんなら一緒に寝てはどうだ。頭を撫でてやるぞ? はっはっは」

「笑ってる場合か。おい、あんた、起きろ」

 ゆっくりまぶたを開けると、山姥切と目が合った。目が合っているにも関わらず、肩や腕を揺さぶり続け、挙げ句の果てには頬を軽く叩いてくる。一刻も早く起きろと言わんばかりの形相に潔く上半身を起こした。何をそこまで慌てているのだろうか。
 ぐらつく身体を背後より支えてくれる三日月は、まだ眠っていれば良い、そう声をかけてくる。それに対し山姥切は、朝餉の準備が先だ、と正面から私の腕を掴んできた。
 障子越しに差し込んでくる薄暗い日差しが朝だと告げてくる。
 ああ、眠い。このままもう一眠りしたいけれど、元気な付喪神たちがお腹を空かせて起きてくるのはいつものこと。ご飯の準備ができていないとなると大騒ぎになってしまう。
 三日月に膝枕の礼を言い、山姥切に手を引かれながら部屋を出た。
 先ほどと変わらず湿気の多い廊下を進んでいると山姥切が突然足を止め、こちらを振り向き何故か睨みつけてきた。二歩距離を縮めた山姥切は、どうして三日月の部屋で寝ていたのか強面で問うてくるので経緯を答えた。着替えと、お茶に付き合っていたら眠気が限界に達し、そのまま三日月の部屋で寝てしまったのだと。
 私の返答にしばらくの間沈黙となり、やっとのことで山姥切は首をかしげる。

「……は? 着替え?」

「え、ああ、うん。着替え」

「着替えさせてやったのか?」

「着替えさせてあげたよ。あの人こうと言い出したら引き下がらないから」

「……審神者が付喪神を大切にする心構えは良いことだと、こんのすけからそう聞いたが、着替えまで手伝う必要があるのか? 朝とはいえ外が暗い刻限に男の部屋へ連れ込まれて何も思わないのか?」

 山姥切は動揺しているのか、視点が定まらずに揺れている。着替え一つでそこまで動揺するものなのだろうか。男の部屋へ連れ込まれるも何も、私としてはお年寄りの着替えを手伝う感覚で対応していたのだが。ましてや相手は三日月だ、人の姿をしてはいるが、美しすぎるがゆえに人とは思えないのが本音である。三日月も三日月で、私の部屋に声掛けの一つもせず遠慮なく入ってくる態度からして、女性として扱われていないのは確実だ。やましいことなど起こるはずがない。
 だが私の考えとは裏腹に、油断するなと山姥切は真剣な表情で告げてくる。

「山姥切くん、大丈夫。三日月さん相手にそんな警戒心いらないよ」

「……あんた、分かってないな。俺たちは付喪神とはいえ、人と同じ感性を持っているんだ」

「そこは理解してる」

「いいや、理解していない」

 腹が減ったら飯を食う、厠にも行く、睡眠を取らなければ頭が痛くなる、怪我をしたら血が出る、たくさん動いたら汗が流れる。
 山姥切は人であるなら当然の生理現象を坦々と述べていく。
 最後に、「心がある」と、まるで私に言い聞かすかのような強めの口調で言い張った。

「心ね、うん。皆、心優しいよね」

「そうではなくてだな。心があるということは……その、様々な気持ちがあふれてくるだろ」

「大笑いしたり、時にはびっくりするぐらい怒ったり。本丸はにぎやかだもんね。いやあ、今日はよく喋るね山姥切くん」

「あのなあ、話をそらさないでくれ」

 山姥切は呆れたように溜め息を吐き、目を細めながらそっぽ向いてしまった。誰が見ても分かるほどの不機嫌な態度、そんな山姥切に礼を一言述べておいた。理由は何であれ、私の身を案じてくれていることは十分に伝わってくる。
 こちらへ来てから一ヶ月が経ったが、皆々心優しい付喪神で平和そのものだ。そのせいか、本丸内の空気は常に澄んでいる。おかげで、一ヶ月前は花など一輪も咲いていなかったのに、今はあちらこちらで美しく咲き誇り、畑の作物も通常では考えられない早さですくすくと育つ。付喪神たちの神気が本丸内に満ちているのだと、凡人の私でさえ分かった。
 山姥切の優しい気持ちも、神気の一つとなり本丸を守ってくれているのだろう。
 ……逆に寝不足続きの私が眠い眠いと重く穢らわしい気を撒き散らして神気を薄めていないか、それだけが心配だ。後でもう少し睡眠を取ろう。
 さて、廊下で立ち止まっていても仕方がない。早く朝餉の準備に取り掛からないと。一定の時間を過ぎるとお腹を空かせた皆が、まだかまだかと台所をのぞいてくる予想がつく。いまだにそっぽ向いたままである山姥切の背後へ回り込み背中を押した。台所へ急ごう。

 台所へ近づくにつれ、出汁の良い香りが濃くなった。火の前に立ち、カツオと昆布を鍋から取り出しているのは薬研だ。
 朝の挨拶をしながら前掛けを身につけ、次に山姥切が頭からかぶっている布をはぎ取る。毎回この行為をとても嫌がるけれど、今から調理をするというのに大きな布などかぶっていては邪魔、危険、それに不衛生だ。いつか、調理をするときだけでも自ら布を取り外す日がくれば良いのだが。
 ただ、そのような仕打ちにあいながらも、毎朝早起きをして手伝いをしてくれる山姥切には感心してしまう。
 山姥切にも前掛けを身につけさせ、薬研の隣へ立つ。鍋の中をのぞくと、とても美味しそうな黄金色の出汁がとれていた。

「薬研くん、素晴らしいね。美味しいお味噌汁ができること間違い無しだわ」

「大袈裟だって。大将に教えてもらったことをそのまましてるだけだ」

「いやいや、薬研くんはすごいよ。前に鶴さんが手伝ってくれたときなんて昆布が燃えたからね」

「まあ、あれはあれで楽しかったからいいじゃねぇか。本人も驚きながら笑ってたしな」

 薬研は笑いながら冷蔵庫を開けて豆腐、山椒の葉、梅干しを取り出す。今日の味噌汁に入れる具らしいが、梅干し……? 梅干しを指さし、どうするつもりか訊ねると、梅干しの果肉を隠し味として一度入れてみたかったのだと気分上々な口調で答えてくれた。そうか、入れてみたかったのか。
 そう言えば、一昨日は魚の腸を捨てずに食べれる方法を考えていた。昨日は米をより美味しく炊く方法として水の分量を細かく計算していた。この料理に対する探究心、見習わなければ。
 薬研と味噌汁について話していると、山姥切が慣れた手つきで卵を割り始めた。この一ヶ月の間に片手で卵が割れるようになるとは。
 成長する彼らを微笑ましく見ていると、大葉をみじん切りにするよう山姥切より指示が出たので、張りきって包丁をにぎった。
 当初は私が指示を出していたのに、今では逆転している。ほんの少し寂しいような、嬉しいような。
 溶いた卵の中へみじん切りの大葉を混ぜ入れ、山姥切は卵焼きを作り始めた。彼の焼く卵焼きは評判が高い。焼き目など教えたわけではないのに、絶妙な加減で焼き上げるのだ。……比べるわけではないが、鶴丸の卵焼きは炭と化していた。
 主菜、副菜の調理をしつつ、米が吹き出さないよう薪の調整をしていると、可愛らしい足音が聞こえてきた。粟田口の短刀たちが台所へひょっこり顔を出し、「おはようございます!」と元気な朝の挨拶が飛び交う。そのまま朝餉の準備の為、台を拭いたり、皿や湯のみを運んでくれたりと、一生懸命に手伝いをしてくれるのだ。まさに天使である。
 次に台所へ現れたのは、先週に本丸へと迎え入れた打刀の付喪神、加州と大和守だ。彼らもよく手伝いをしてくれる。短刀たちよりは体つきがお兄さんなので、やかんや大皿など、重い物は彼らが全て運んでくれるのだ。
 しばらくすると、よりいっそう居間が騒がしくなり、明るい話し声が台所まで聞こえてくる。朝餉の時間だ。
 いつの間にかこんのすけも座布団の上でお座りをしていたので、睡眠時間を削りながら作成した報告書を渡し、すかさず油揚げをそばに置いた。再提出になりませんように。
 そんな油揚げを凝視するもう一つの存在が、先日の鍛刀で迎え入れた鳴狐とお供の狐だ。この熱い視線を浴びることは予想していたので、彼らの分も用意してある。周囲に気づかれないよう、そっと食事の台に一品添えてあげた。
 皆がそろったところで手を合わせるが、一席空いていることに気づき、誰が居ないかを確認する。
 三日月だ、三日月がいない。早起きをしたせいでもう一眠りしているのだろうか。
 乱と秋田がすぐに立ち上がり部屋へ呼びに行ってくれたが、部屋にはいなかったらしく居間へ戻ってきた。だとしたら厠だろうか。とりあえず確認に行こうと腰を上げると、「すまんすまん、ちと遅れてしもうた」などとほがらかな笑顔で現れたのは三日月本人であった。
 その姿に全員が驚いた。今朝着替えさせたはずの着物から作務衣に着替えていたのは……まあいいとして、全身が泥だらけだ。頭に巻いているバンダナから、首にかけている手ぬぐい、顔、足先にまで泥が付着している。三日月がここまで歩いてきた廊下にも道標のように泥が落ちているではないか。

「み、三日月さん、その泥はいったい……」

「ああ、雨で畑が荒れていたゆえ、少し作業をしてきた。足元が悪くて幾度か転んでしまってな。はっはっは」

「はははじゃないでしょ、もう! ああ、ご飯どころじゃない。お風呂準備してくるから脱衣所で待っていてください!」

 皆には先に食べているよう声をかけ、風呂場へ走った。風呂はありがたいことに、どこからか湧いている温泉があるので常に温かい。問題はシャワーだ。私が生まれ育った現世と同じシャワーがこの本丸にもあるわけだが、水しか出ない。しかし、特定の場所で薪を焚くとシャワーがお湯になるのだ。風呂場も台所と同様に今と昔が混ざり合っている摩訶不思議な空間。すぐさま火を焚き、シャワーからお湯が出るように準備を整えた。
 着替えの作務衣を用意し脱衣所へ行くと、三日月は泥だらけのままぽつんと立ち、私の姿をとらえるなり笑顔となる。

「主、朝餉の前にすまんな」

「いえいえ、三日月さんに振り回されるのには慣れてきましたので」

「おお、それは嬉しいな」

「あの、一応言っておきますが褒めてないです」

「そう照れずともよい」

「照れてないです」

「では背中を流してくれ」

「自分で流してください。着替えここに置いときますね」

 これ以上話していても拉致があかないので、脱衣所から出ようと三日月に背を向ければ、右肩を掴まれた。
「背中を流してくれぬと申すのなら、泥にまみれた俺が背後より抱きつくぞ。覚悟はよいか」そう声をかけてきたので、掴まれている手を全力で引き剥がし、抱きつかれる前に逃げた。腹部に一発パンチを入れてやろうとも考えたが、泥がつきそうなのでやめておいた。
 居間へ戻ると、皆が談笑しながら茶を飲んでいた。食事には手を付けていない。どうやら戻ってくるのを待っていてくれたようだ。
 皆に礼を述べ、ご飯が冷めてしまったことに謝罪をした。皆がやっとのことで食べ始めたが、私は箸を取らず茶を飲む。さすがに、三日月に一人で食事をさせるわけにもいかないだろう。皆が私にしてくれたように、待っていてあげよう。
 私が食事に手を付けない様子に気づいた山姥切と薬研は、何も言わずに箸を置いた。鶴丸も食事には手を付けていない。言葉がなくとも意思が通じ合うとは、まだ出会って短いというのに嬉しいことだ。とはいえ、内番や出陣の準備もあるだろうに、付き合わせては申し訳がない。先に食べるよう身振り手振りで合図を送るが、見事に無視をされてしまった。鶴丸だけは無視をされて唖然とする私が可笑しかったのか笑をこらえている。

 食べ終わった者が片付けをし始めた頃、三日月が居間へと戻ってきた。髪を濡らしたまま。
 冷めきった食事の前へ腰を下ろしたところで、今剣が三日月の背後へと立ち、髪を拭いてあげるという展開だ。今剣の気遣いに三日月は感謝をするべきである。

「あなや、皆食事を待っていてくれたのか」

「主が箸を取らないからな。驚きだろ? まあ、食事は大勢で食べたほうが美味しいと言うしな」

 鶴丸、そのようなことは報告しなくていい。こっ恥ずかしいじゃないか。
 三日月は鶴丸、山姥切、薬研、今剣、私、一人一人に礼を述べ箸を取る。はあ、やっと食事だ。食後に一眠りしようと考えていたが、あきらかに時間が無い。あきらめよう。
 穏やかに食事が進む中で、薬研が小さな悲鳴を上げた。
 食事の片付けを終えた五虎退が薬研に手合わせをしてほしいと申し出、薬研は出陣と内番の予定が入っているので明日にしてほしいとしぶしぶ断っていた。断られたことが辛かったのか、悲しげな表情をする五虎退の気を虎が感づき、薬研の頭へと飛びついたのだ。その反動で持っていた茶碗を落とし、畳の上へと米が散らばってしまったらしい。同じ短刀とはいえ、お兄ちゃんは大変である。
 米を無駄にしてしまったと青ざめる薬研と五虎退の側へ行き、ご飯を指先でつまみ上げた。畳についてしまった部分を取り除き、おにぎりにして海苔を巻き薬研へと差し出す。

「大将、こりゃあ」

「おにぎりって、ちょっと嬉しくなるよね」

「……はは、大将はすごいな。ありがたくいただくぜ。ほら、五虎退も半分食べるか?」

 薬研は怒るどころか、目に涙をためる五虎退の頭を撫でていた。誰が見ても良い兄弟である。一部始終を見ていた皆も、微笑ましい表情で二人を見守っていた。
 さて、今日は雨が降ったせいで足元が悪い、三日月の泥だらけの作務衣を洗わなければならない、五虎退は薬研と手合わせがしたいらしい、あと私事だが睡眠時間が欲しい。
 ――よし、決めた。

「今日は出陣お休みにしよう。皆、本丸でそれぞれの時間を過ごしてね」

「大将、いいのか?」

「うん、こういう日もないとやってらんないよ。休もう休もう」

 やはり付喪神も休みは嬉しいのか歓声が上がる。この一ヶ月働き詰めだったので、喜ぶのも無理は無い。付喪神とはいえ人の姿をしている以上は疲労、怪我などの身体への負担は避けられないゆえ、手入れをするのは必然。入れ代わり立ち代わり交代で出陣をするのが一番の理想だが、人手不足の為それさえ難しい状況なのだ。だからといって出陣の回数を減らすと時の政府は何かと小言を言ってくる。皆には無理を言い続けて出陣してもらっているこの現状で、本来なら嫌味の一つでも言われて当然なのだろうが、誰一人として嫌な顔を向けてきたことはない。むしろ出陣に加えて内番をこなすほどの働きっぷりである。
 優しい付喪神達のため、これからは自主的に休みの日を取り入れていくことにしよう。皆の喜ぶ顔を見れるのは私も嬉しい。時の政府に何を言われようと、私が決めたことだ。貫き通してやる。

 食事の片付けを終え、さっそく三日月の泥だらけの作務衣を洗うことにした。先ほどより雨が激しく降り始めたので傘を探すが、どこにもなかった。近々、万屋へ買いに行かなければ。
 ひとまず今日は井戸まで走った。井戸には屋根があるので雨に濡れることもない。他の洗濯物は明日以降に洗おう。部屋の中に干しても生乾きになるだけだ。
 三日月の作務衣から乾いた泥を払いのけていると、五虎退が小走りで駆け寄ってきた。どうしたのだろうか。

「あ、あの、主様……」

「五虎退くん、今日はお外で遊ばない方がいいよ? 転んで怪我しちゃうかもしれないから」

「その、主様にお礼が言いたくて」

 震える声を絞り出しながら、かがんでいる私の隣へと腰を下ろした。お礼とは、出陣を休みにしたことだろうか。何であれこの状況、恐ろしいほどに母性本能がくすぐられてしまう。作務衣を置き、一生懸命に何かを伝えようとしてくれている五虎退と正面より向かい合った。
 すると五虎退は頭を下げ、おにぎり美味しかったです、と予想外な礼を述べてきた。

「主様の優しさがつまっていて……おにぎり、大好きになりました。ありがとうございます」

「おにぎりって美味しいよね。私も大好きなの。お望みならいつでも作ってあげるからね」

「う、嬉しいです……」

 五虎退は顔を真っ赤にして走り去って行った。あの様子だと、よほど緊張したのだろう。このような井戸にまで自ら礼を言いに来るとは、可愛らしい。五虎退の勇気に心が癒やされた。
 引き続き作務衣についている泥を払い、井戸から水を組み上げるため桶を放り込むと、「いだっ!」という声が井戸の中より聞こえた。井戸の中をのぞきこもうとしたが、やめた。確実に白い誰かがスタンバっていること間違い無しだ。

「おーい、そこにいるんだろ? 手を貸してくれ。勢いで入ったはいいが出られないんだ! はは、尻を打って血が出てるぜ! こりゃ驚きだ!」

「うわあ、ってことは井戸水に鶴さんのお尻から出た血が混ざって……ん、それより今なんて言った? 出られないって言いました!?」

「その通り、聞き間違えじゃないさ。出れん!」

「ああもう、ちょっと待っててください!」

 あわてて手の空いている者を呼び集め、太めの綱を井戸の中へと放り込み、皆で力を合わせ鶴丸を引き上げた。ずぶ濡れの鶴丸が井戸より現れ唖然である。
 三日月といい、鶴丸といい、太刀の二人は何をしているのだ! 戦となると大変頼りになるが、本丸での行動は問題ばかりを起こす二人。
 鶴丸を風呂へと誘導し、再び濡れた衣服を井戸へと持ってきた。出陣していないのに洗濯物が増えていく。袴を広げると、尻の部分が赤く染まっていた。そういえば尻を打ったと言っていたが……。何であれ今回ばかりは自分で手入れをしてもらおう。
 血液は時間が経つにつれて落ちにくくなるので、さっそく井戸水でもみ洗いをした。元が純白なので少しでもシミが残れば目立つだろう。いつも妙な行動をするが、戦闘においては頑張ってくれている鶴丸に恥をかかさないためだ。何が何でも洗い落としてみせる。

 その後は何事も無く平和に洗濯を終え、自室へと戻った。この寝不足状態で朝から走り回ることになるとは。はあ、疲れた。
 もはや思考がはっきりせず、睡眠をとらなければどうにかなりそうである。座布団を枕にして横になると、意識が夢の世界へ旅立とうとしている最中、障子戸の開く音が聞こえた。次第にゆりかごに揺られているかのように身体が揺れ……。

「主、主、起きよ」

「……どうして、どうして、どうして睡眠の邪魔ばかりするんですか、三日月さん! 出てってぇぇ!」

「茶をこぼした、拭くものを用意してくれ」

「もうやだ、助けて、山姥切くん」

「山姥切国広は馬小屋におるはずだが。なあ、はよう、拭けるものを用意してくれ」

 涙目である。しぶしぶ起き上がり、台所へ布巾を取りに行った。ようやく眠れると思ったのに、またしても三日月に邪魔をされてしまうとは。
 覇気のない足取りでじめじめと湿った廊下を歩いている最中、肩が柱にぶつかり地味に痛い。三日月が茶をこぼさなければ今頃すやすや夢の中であったはずなのに。
 三日月の部屋前で立ち止まり、中へ声をかけようとすれば障子戸がゆっくりと開いた。中から開けてくれたのかと思いきや、中には誰もいなかった。厠にでも行っているのだろうか。
 どこかのおじいちゃんのように人の部屋へずかずかと入る度胸はなく戸の前で呆然と立ち止まっていたのだが、次第に寝不足の頭とはいえハテナが浮かび始める。
 誰もいない部屋の障子戸が開いたのは何故だ。
 気になったので部屋の中を入念にのぞいていると、ふと視線を感じた。どこから見られているのかは分からない。ただ、手足に見えない糸が絡みつくような、そんな感覚が身体中にまとわりつき始めた。なんだ、これは。
 あまりにも気味が悪く立ち去ろうとすれば、「どこへ行く」と背後より声がかかった。

「ひいいいい!」

「おやまあ、どうした、青ざめた顔をして」

「あ、み、三日月さん……今、三日月さんの部屋の障子戸が勝手に開いて、中から視線も感じて」

「なんと奇妙な。どれ、俺が調べてやろう」

 三日月は驚いた表情を浮かべたが、すぐに笑顔となり部屋の中へと足を踏み入れた。棚、机の下、押入れの中など重々に確認をするが、やはり誰もいなかった。
 廊下から怖々と部屋の中を見つめている私に、「安心せい、誰もおらんゆえ」そう言いながら手招きをしてくる。三日月の言う通り誰もいないが、あの視線を気のせいだとは思えない。手足に何かが絡みついてきたのも確かだ。
 三日月には申し訳ないが、今この部屋に入りたくない。
 手招きをしてくる三日月に、私も廊下から手招きをしてみせた。三日月は何も言わずこちらへ来てくれたので、手ぬぐいを手渡す。これで目的は果たした。
 手ぬぐいでこぼした茶を拭いたら水で洗って干しておくよう手順を説明し、自室へ戻ろうとしたのだが。

「なるほど。俺の部屋へ入りたくないと、そういうことか。はっはっは。さあ、入った入った」

「げ、やだ、ひっぱらないでください! 言いつけ通り手ぬぐいを持ってきたんだからあとは自分でしてくださいよ!」

「まだ気づかんか。茶などこぼしておらん」

「は? ひ、うわ!」

 中へ中へと腕を引っ張る三日月に耐えるべく障子戸に掴みかかっていたのだが、私が呆けた一瞬の隙に中へと引きずり込まれた。素早く障子戸を閉め、バランスを保てず畳へ倒れこんだ私を崩さぬ笑顔で見下ろしてくる。最悪だ、思い切り頬を畳へぶつけてしまった。平手で叩かれたように痛い。
 頬に手を添えながらのそのそと起き上がり、寝不足の私を起こしてまで茶をこぼしたと嘘をついたのは何故か問い詰めていると、次第に不思議な香りが鼻につき始めた。その香りは、線香に甘さを加えたような、少なくとも私がいた現世では嗅いだことのない香りだ。
 途端、足に力が入らなくなり、正面にいた三日月の胸元へ掴みかかる事態である。その掴みかかっていた手も力が抜け、だらんと下へ落ちた。
 三日月は私を抱きとめたまま、優雅に畳へ腰を下ろした。己の太ももへ私の頭を置き、指先で髪を梳いてくる。この状況、朝にもあったような。

「朝の続きをしたくてな。茶をこぼしたとほらを吹いたのも、まあ、そういうことだ」

「あの、お茶のことはもういいです。それより手足に力が入らないんですけど、これって」

「ああ、そういう香を焚いているのだ。主が良い夢を見れるように。なに、心配はいらん」

「無茶言わないでください、恐ろしい事態に眠気も吹き飛びましたよ! そのお香か何か知らないけど早く消してください!」

「それはいかんな。人の子は睡眠が大事だと聞くが」

「その睡眠をことごとく邪魔していたのはどこの誰ですか」

「はて、誰であろうな」

 口元を袖で隠し愉快そうに笑う三日月。確信犯だ。
 ここで丸め込まれてしまっては今後も同じようなことの繰り返しになる想像がつく。ここは主らしく厳しい言葉で言い返さなくては。
 眉を吊り上げ睨みつけると、三日月は私の前髪をかきあげ、背を丸めて顔を近づけてきた。何をするのかと思いきや、額を合わせ、先ほど畳に打ち付けた頬を上から下へ、上から下へ、繰り返し撫で始めた。
 三日月の指先が頬に触れるたび、不思議と意識が遠のいていく。
 ふわり、ふわり。





つづく





あまり姿を消して主を驚かせてはならぬぞ、今剣よ。

すがたをけしているわけではありません。かげにかくれているだけです。あるじさま、とってもかわいいひょうじょうをみせてくれるのでどきどきしました。

主は青い顔をしておったぞ。

みかづきにいわれたくないです。いぜん、あるじさまのゆめにはいりこみつくもがみたちにたべられるゆめをみせたの、みかづきのしわざでしょう? くるしむあるじさまがかわいそうでぼくがおこしてあげました。

おお、やはりばれていたか。

ばればれです。

なんにせよ、あの夢のおかげで事は丸く収まったであろう。

あるじさまをほんかくてきにこわがらせてはなりませんよ。せいしんがこわれてしまったらどうするつもりですか。ひとのこころはもろい。

そうだな、互いに気をつけるとするか。

ぼくはこころえています。ただ、あるじさまにかまってもらいたいだけです。

俺とて同じだ。四六時中構ってもらいたいさ。

はてさて、ぼくたちをここまでとりこにするとは、さきがおもいやられますね。

我ら三条だけではない。本丸内の澄み切った神気、付喪神の審神者に対する思いがそのまま流れているのであろう。

たしかに、いじょうなまでにしんきがみちているので、いごこちがよすぎます。

主はまこと神に好かれる存在ぞ。

――ああ、可哀想に。